【沖縄戦:1945年5月30日】「此ノ一離島ノ失陥ガ大戦争ノ鍵ノ如ク考定スル朝野ノ無意気ヲ嘆ズ」─沖縄戦の戦局悪化と戦争継続のための陸軍中央の政治工作
30日の戦況
この日は雨の中であったが、米軍は全線で活発に攻撃をしかけてきた。
首里司令部東南では、米軍は西進をすすめ、宮平東側高地(現在の南風原町宮平周辺か)を占領したが、守備隊は宮平北側高地ー兼城87高地(現在の南城市大里古堅周辺か)ー仲間の線を確保した。
歩兵第64旅団長はこの日夜、独立歩兵第21大隊を東風平付近に派遣し陣地を占領させた。
雨乞森南方地区の米軍は、活発ではないが滲透を続けていた。歩兵第63旅団長は独立歩兵第11大隊を高平付近に後退させ、さらに特設第4連隊を高平から目取真付近に移動させ、旅団司令部は目取真に位置した。
30日の首里東南の戦況と歩兵第63旅団(63B)および歩兵第64旅団(64B)の行動:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より
首里司令部北方では、弁ヶ岳、石嶺高地、大名高地が攻撃をうけ、守備隊は抗戦したが、米軍は滲透を続けた。独立歩兵第22大隊は首里城に進入した米軍を攻撃するため第5中隊の佐藤小隊、作業小隊など一部部隊をもって平良町、110高地の守備にあたらせ、第2中隊長松田中尉に第2、第5中隊および機関銃中隊をあわせて指揮させ首里城内の米軍攻撃を命じた。松田中尉は夜襲を繰り返し、31日ごろ首里城の一角を確保し部隊の撤退行動を容易にした。
首里司令部北方の戦況図:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より
那覇方面では市街戦が続き、35高地(現在の城岡公園)が馬乗り攻撃をうけたが、与儀および松川南側の高地は確保して米軍の進出を阻止した。
なお軍司令部がこの日未明、摩文仁89高地の自然洞窟に到着し、新司令部としたことは既に触れたとおりである。
大本営陸軍部の戦況手簿はこの日の状況を次の通り記している。
一 那覇市若狭町戦車三三、泊沖水陸戦車一四、牧志町歩兵一四〇
二 第三十二軍司令部摩文仁南方八九高地ニ概ネ移転ヲ完了ス
(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)
那覇の劇場跡に立つ海兵隊員 45年5月30日撮影:沖縄県公文書館【写真番号74-33-1】
神航空参謀の本土出撃
軍中央への航空攻撃の要請と戦訓報告の任務を与えられ司令部を脱出した神直道航空参謀はこの日、ついに糸満漁夫を漕ぎ手として、名城(現糸満市名城)からクリ船で喜屋武岬を経て東海岸沿いに北上し、浮原島(現うるま市)ー久志(現名護市)ー安田(現国頭村)を経由し、6月7日未明に奄美諸島与論島に到着し、奄美諸島徳之島の独立混成第64旅団長と連絡をとり、九州を経由して6月14日に東京に到着した。
本土連絡に出撃する45年5月30日の神航空参謀の日誌 同行の下士官と6名の糸満漁夫の名が見える他、「断乎現態勢ヲ以テ連絡決行」などと記されている:「神日誌」其1(防衛研究所「沖台・沖縄254」沖縄戦関係資料閲覧室より)
沖縄戦と陸軍中央の政治工作
沖縄戦の地上戦がはじまった当初から敗北を予想していた陸軍中央であるが、5月に入るとその見通しは確信にかわり、陸軍中央は本土決戦の完遂に向けて、また恐らく政治責任の追及を防ぐために、政治工作、議会対策を講じはじめたことはすでに触れたとおりであるが、第32軍が首里を放棄し、摩文仁の新司令部に到着したこの日、いよいよ政治工作、議会対策が本格化する。
陸軍軍務局は5月8日ごろより沖縄戦の戦局の推移に伴う対策の検討を開始していたが、軍務局長室でこの日、第二、第三、軍務、戦備各課長を招集し、「沖縄決戦ノ推移ニ伴フ措置要綱」の研究がなされた。そこでは沖縄戦終結に伴い陸相から首相に要求するものとして、第一に戦争指導方針の確立、第二に陸海軍一体化、内閣組織の簡素強化、地方権限強化、その他として義勇戦闘隊、軍需生産、食料、和平反戦論、非常大権発動に関する措置、などが取り決められた。この措置要綱案については、翌31日に参謀総長、次長に説明がなされたとのことだが、沖縄戦の戦況が悪化し敗北を迎えようとも、非常大権発動を含むあらゆる方途によって戦争を継続し、本土決戦を遂行しようという陸軍中央の意志を感じ取ることができる。
また、この日の大本営陸軍部第20班(戦争指導班)の業務日誌「機密戦争日誌」には、上の軍務局における「沖縄決戦ノ推移ニ伴フ措置要綱」の研究をおこなったことを記したのち、次のようにある。
昭和20年5月30日 水曜
[略]
一、午後一時ヨリ臨時次官会議アリ「戦時緊急措置ニ関スル件」(全権委任法)ノ研究アリ 明日更ニ次官会議ニ於テ研究ヲ続ケルコトヽセリ
一、大串登代夫来リテ全権委任法ノ憲法違反ナルヲ説ク
本日定例ノ重臣会議アリ終ツテ総理陸海軍大臣間ニ臨時議会ノ開催ニ付懇談アリ 海軍大臣ハ不同意ヲ述ヘテシモ陸軍大臣同意ヲ述ヘ遂ニ海軍大臣モ納得愈々開催スルコトヽス。
今後ノ諸準備ヲ進ムルコトヽセリ特ニ
1、陸軍大臣ノ議会演説ヲ重点トス
2、内閣瓦解ノオソレナシトセス ソノ際ノ対策ヲモ併セ至急研究スルコトヽス
議会ニ於テ提案セラルヘキモノ左ノ如シ
1、全権委任法
2、義勇兵役法
政府ハ第三十一条ノ非常大権ヲ忌避シ(解釈ノ区々タルニヨル)全権委任法ニヨリ乗リ切ラントスルモノ如シ
平和カ 嵐カ!
陸軍中央としては沖縄戦の敗北における議会対策も講じており、議会が招集開催されれば全権委任法と義勇兵役法を提案し、採択成立を狙っていることがわかる。
なお全権委任法については以前も触れた通りその詳細は不明だが、おそらく「政府ハ第三十一条ノ非常大権ヲ忌避シ(解釈ノ区々タルニヨル)全権委任法ニヨリ乗リ切ラントスルモノ如シ」との言葉から、非常大権発動に似通った強力な総力戦体制の構築を可能とする法律と思われる。陸軍は非常大権発動を企図しながらも、議会においては全権委任法を成立させ、実質的な非常大権発動を計画していた様子が伺える。一方で、沖縄戦の敗戦に伴う内閣の瓦解も視野に入れ対策も講じるなど、冷徹な政治的計算が伺える。
一方、陸軍河辺虎四郎参謀次長はこの日の日記に
沖縄ノ戦況愈々芳シカラズ、寔ニ口惜シキ限ナレドモ救援ノ途ハ全然ナシ、然シ此ノ一離島ノ失陥ガ大戦争─真ニ大国家ノ死活ヲ賭スル大戦争ノ鍵ナルカノ如ク考定スルトコロニ朝野ノ無意気ヲ歎ゼザルヲ得ズ、ドウモ苦戦ノ経験ナク……我ガ朝野ノ堪戦能力ヲ歎ク 国境破レ「エーヌ」ノ線ハ潰エ、「パリー」ニ適砲弾落下シテ尚且強敵ニ屈セズ闘志ヲ捨テザリシ仏国々民ノ堪戦意志ヲ学バズシテ何トスルカ
(戦史叢書『大本営陸軍部<10>』)
と記す。沖縄の戦局悪化を口惜しいとして、戦局打開や第32軍への支援を模索しながらも、つづけて「此ノ一離島ノ失陥ガ大戦争─真ニ大国家ノ死活ヲ賭スル大戦争ノ鍵ナルカノ如ク考定スルトコロニ朝野ノ無意気ヲ歎ゼザルヲ得ズ」というところに、陸軍中央の沖縄戦の認識と位置づけがはっきりあらわれているといえる。
一離島つまり沖縄が失陥しようがどうしようが、戦争は継続するし、国家の根幹が失われるわけではない、ということである。まさしく「皇土防衛の前縁地帯としての沖縄」という沖縄戦の認識、位置づけが如実にあらわれている。同時に、沖縄戦の敗戦が決定的となっても、それは一離島の失陥に過ぎないことから、戦争を継続し、本土決戦を遂行するため陸軍中央が様々な政治工作・議会対策を展開したといえる。
首里城に星条旗をはためかせるチャールズ・P・ロス中佐 45年5月30日撮影:沖縄県公文書館【写真番号80-07-4】
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・戦史叢書『大本営陸軍部』<10>
・『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6
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「第2のシュガーローフ」といわれたボルドノーズ・ヒル(場所不明、那覇市内の丘であろう)の日本軍陣地を37ミリ軽砲で攻撃中の海兵隊員 後方の大きな塔は無線塔とのこと 45年5月30日撮影:沖縄県公文書館【写真番号83-32-3】