母性と自由

単なる夢ではあるけれど、なんだか薄気味悪かったのです。
私は動物を飼ってみたかった。自宅のような、または間取りが似た別の部屋なのかもしれませんが、
とにかくーー部屋の中にたくさんの動物が、ケースの多くは爬虫類たちがいました。
私は爬虫類ではないが、蝙蝠の太ったような、梟のような変わった動物を見つけ、家族にどう思うかを聞いていました。彼らは私が差し出した動物を抱え、まんざら悪くなさそうな顔をしていました。思いがけず否定されなかった自分のチョイスを若干怪しみ、「臭いはしないよね?」と言うと、彼らは「いや、するよ」と言います。そうなのか。臭いがするかこの距離ではわからないから、もう一度抱きかかえてみよう。だって、臭いがきつくて嫌になったら大変だもの。私は自分の選んだその動物をまた抱え、口元の臭いを嗅ぎました。果たしてその臭いはなんとも言えない微かな臭みがあり、抱いてみると胸元に赤子とは違う抱き心地の悪さを覚えました。なぜか羽毛が生えていて、それはふさふさで柔らかいのに、その毛の繊細さに、なぜか生物としてのアンバランスさや、奇妙さを感じました。それで、みんなは良さそうだと思ってくれてはいるけれど、やっぱりこの動物はやめよう、と思いました。私はもっと単純な動物、臭いの少ない動物が良さそうだ。
それで、先に夫が手に取っていた、身体の一部が透明な球でできている、珍しい蛇にすることにしました。ただ、先ほど見たと思ったのに、どのケースに入っているかわかりません。あれは人間が品種改良したものなのでしょうか?体が透明の球でできているなんて、作り物の蛇なんでしょうか?
どこにいるだろうと探していると、その珍しい蛇ではないものの、美しい色の、トカゲを蛇にしたような色の蛇がするするとケージから逃げ出てきて、自宅のキッチンの方に隠れてしまいました。ああ、これでもいいな。でも一度ケースに戻さなくては。私は思いました。
キッチンが薄暗く、私は電気をつけます。よく見ると、逃げ出した蛇の他に、トサカの部分が白で、ファッショナブルなトカゲが横にいます。私は目を疑い、訝しがります。横にも亀が見える気がします。さらに、後ろを見ると、空腹で気力をなくした子どもの虎だか豹だかが、静かに座っているのでした。私はぞっとしながら、ケージから出ているーーきっと私はこの動物を昔借りたことがあるのだーー虎だか豹だかに、空腹のままではいけないと、少しだけ餌を与えました。覇気を取り戻すその動物に恐怖を覚えます。私はそれこそ好き嫌いや見た目の良さできっとこの動物を、飼いたいと思ってキープしたのだろうが、ここに放置しているのだ。返すことも忘れ、存在に今気づくほどに。それに、この元気になっていく小さな獣の扱い方を知らないのだ。借りていた時はもっと小さなケージに入っていたのにーー少し身体が大きくなってしまっているこの獣の恐ろしさを無邪気に考えることができないのだ。なんとかその獣に、またケージに入るよう促します。獣はとても悲しそうな顔をしながら、ケージの中に入ろうとします。
私はここで愕然とします。そういえば、レンタルしている観葉植物を思い出します。借りる前は、本当に大事にしよう、今度は以前のように枯らしたくは絶対にない、と思いながら育て続け、半年経っても元気なら、晴れて欲しい植物を買うんだと決めていたのにーー最近では、水やりも、日光を与えるのも面倒になっている自分がいるのです。やはり返してしまおうか、レンタルなんだし。…まだ、3ヶ月も経っていません。
私は別のシーンにいて、メールの中身が空中に表示され、「7月7日までの締切に遅れたため、依頼を取り止めます」というメッセージを見ます。確かに忘れていた、大事だと思っていたのに、後悔していたものに、上司がコメントをつけていました。やり方はこの二通りがあり、このコマンドで検証ができる。…
私は就業時間が過ぎているのを感じながらも、先輩に連絡をとります。「遅くなっているがもう少し粘りたいので、検証を一緒に見てもらえませんか?」と伝えます。この上司はおそらく断らないと踏みながら。…

…きっと、仕事が山積みなのです。全部大事なのに、優先順位がつけられていなくて、放置した動物が、それを物語っているのです。自分がやるよとタスクを自分に振っておきながら、何一つ覚えていないのです。もちろん、タスクの担当者は、webで確認することはできますし、カレンダーやらなにやらにきちんと書き留めておけばいいのです。…
それでいて、一つのタスクでさえまともに完了していないその様を呪った夢なのです、これは別に夢診断でもなんでもなく、そう感じただけで、夢なんて頭のバグで、意味がないものがあたかも意味があるようにーーランダムに映像が流れているだけなのだと理屈ではわかっていてもーー、動物に例えられたタスクが息を吹き返し、放置されたままになっているその様が、なんとも自分の痛いところを抉るような、気持ちの悪さを感じたのでした。

そういえばやっと母性と自由なんてタイトルをつけたのだなあと思い出したのですが、母性は最近見た映画のテーマで気になっていたものであったから、そして自由は、愛情を与え続けることへの疲れを表現しています。
動物を育てたい、飼いたいと思うことは、私にとって憧れのあることですが、私は自分の自由な時間のために、我が子でさえ疎ましく思うことがあるので、放置も考えうる、返却も考えうるこの無邪気で無責任な、投げやりな気持ちでは、やはり動物や植物を育てるのは向いていないのだろうと感じざるを得ません。…

世の中そんなことばかり気にしていたら飼えないだろう、飼ってみて覚悟を決めることもあるだろう、と思う自分もいるのです。我が子が意図せず出来てしまったのと同じく、覚悟を持って育て上げようとその時決めたって、いいだろうとも思うのです。
ですが、そんな動物たちが、私の夢の中で、放置されてケースから出ていたのは、私の雑な管理体制や、仕事のできなさを表しているに違いない、一種の警告なのだ、と感じます。

いつもこんなときは眠り直したくないと感じます。
怖い夢をまた見たくないからです。
娘が歯軋りをしながら寝ているのを見つめます。
私は何がしたいだろう、やはり仕事を片付けて、子育てを頑張れと言うことなのだろうか?
夫は優雅に休日を過ごし、ストイックに身体を鍛えていて、モチベーションなど上がるわけがないのだから習慣化するしかない、仕事だと思って取り組めば簡単だと言いますが、
私は仕事が終わっていなくて、バツの悪さを感じます。
思えば仕事なんて終わらないように出来ているのかもしれません、私のようなそそっかしい人間は、よくミスをするので、ミスを減らさない限り、時間が永遠に過ぎていくだけで、なんの進捗も出せない効率の悪さに身体までおかしくなるのも、あまり表立っていうこともありませんが、何らかの不安要素として、きっと夢に入り込んでいるのでしょう。


言葉が好きです。音楽が好きです。好きな音楽をシェアしつつ文字を書いているだけなので、アーティストさんの歌詞などとあまり関係がありません。すみません。