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「アスぺ」が排斥される理由

※「アスぺ」という言葉を侮辱の意味で使う人もいるが、差別の話ではないと先に断っておく。

※また、アスペルガーはスペクトラムの様相を見せる(個人によって個性に差がある)ため、以下の記述が全ての当事者に当てはまるわけではない。あくまで読み物としてご覧になって頂きたい。

  

 …

空気が読めない。話が噛み合わない。話を聞けない。だらしなく社会に適合できない…

アスぺは正式には「アスペルガー症候群」という発達障害の一つで、自閉症スペクトラムに分類される。主に社会性の障害として広く認知されている。

「お前アスぺかよ」と言う暴言や弄りは巷でよく耳にするが、多くは相手の言動の奇特さや、コミュケーションに齟齬があった際に使われる。

 

今回は定型発達者が何故、「アスぺ」と呼ばれる人達に対してコミュニケーションを取るのが難しいのかを考察しつつ、何故アスぺが排斥されるのかを書いていきたい。

 

講談社現代新書から出版されている「自閉症」の時代 という本が、自閉症者と定型発達者との違いを詳しく論じている為、おすすめである。


他人に関心を持ちにくい。
 

僕はよく匿名チャットをする。自閉症の診断を受けたと言う男性(以下A)と何度か話をした時、彼は「他人に関心を持てない」と言っていた。

僕は「匿名チャットサイトでこのような話をしている時点で他人に興味あるじゃん」と思ったが、そもそも自閉症者と定型発達者では他の人間に対しての捉え方が違うらしい。

 

定型発達者は、目に映る全ての人間に対して、「もし自分がこの人だったら」という前提で行動をしている。無意識に「ごっこ遊び」をしているようなものだ。

常に他者に対してもう一人の自分を見出しているからこそ、感情移入をし、相手に対して興味関心を持つことに繋がる。

もうひとりの僕

対して自閉症者はそのような能力を持たない場合が多い。

他の人間も自分と同じように感情を持っており、それぞれ別個の考えがある事を想像することが難しいのだ。

 

Aは「町行く他人を、人だと思えない」と言っていた。「生物としての人間」としては捉えているが、木や看板などと同じような、風景上にあるモノの一部として認識しているらしい。

定型発達者からすると意味が分からないだろう。

 

自閉症者は目に映る人間を「生物としての人」としては捉えているが、自分と同じ感情を持つ人間だと認識をしにくいからこそ、コミュニケーションに軋轢が生じるのかもしれない。

 

また、自閉症者がしばしば自己中心的とも捉えられる言動をするのも、他者に感情移入する能力が欠如していることが原因である場合が多いと言える。

感情移入することが難しい上に、常に多くの情報量を流し込んで来る他者に対して、自閉症者が出来るコミュニケーションが「相手を無理やりコントロールする」という手段だけになってしまう。

自分のコントロール下に置いて、自由意思を奪うと言う手段に訴えることしかできなくなってしまうのだ。

 

加えて、他者に感情移入することが難しい為、相手が困っていたとしても我関せずの冷酷とも取れるような態度を示すこともある。

何故相手が困っているのか分からず、共感出来ない為、例え近くで誰かが困っていても、手を貸すこと理由が分からない。

 

このように、自己中心的で冷たいとも取れる様相を示すことが多いとされているのにも、自閉症特有の性向があるが為である。

 

他者に自己を映す能力が弱い為に生じる、「感情移入・共感性のなさ」こそが自閉症者とのコミュニケーションを非常に難しくしている要因の一つだと言える。

 

他者の話を聞けない
 

匿名チャットで出会った自閉症者のAは、仕事で先輩の商談に同行した際に会話が全く頭に入らなかった経験があると話していた。

近くで空調の音が大きく聞こており、それによって会話が全く聞こえなかったと言う。

商談終了後、先輩に内容を聞くと普通に商談として成り立っていたことが分かった。商談相手も先輩も、空調の音など関係なく普通に会話をしていたのだ。

 

このような例は枚挙に暇がない。大切な話をしているにも関わらず、自閉症当事者は全くその話を聞いていなかったり、違うものに気を取られて内容が全く頭に入らないなどコミュニケーションが成立しないことがあるのだ。

何故か。

 

ここでも定型発達者との違いがある。

定型発達者は、例え周りで大きな音がしていたり(勿論限度はあるが)、近くで誰かが別の話をしていても、それをある種のBGMとして捉えてしまう。

「目の前にいる人間」と「その他」を自動で分けて、「その他」をある種忘れてしまう能力を持っているのだ。

だからこそ、近くで誰かが話していても、少し気になる物があるとしても、それに全ての意識を持っていかれることは基本的にはない。

 

 

一方、自閉症者は、「目の前にいる人間」も「近くで話している誰か」も「ちょっと気になる目の前のもの」も全てを別個で捉えている。

 

定型発達者からすると、目の前にいる複数人から一斉に話しかけられながら、横で酷く気になるものを見せつけられているような状態に近いのかもしれない。

自閉症者は多すぎる情報量を、フィルタリングすることが極めて苦手なのだ。

 

並行処理が出来ない

自閉症者は並行処理(マルチタスク)が極めて苦手だ。

電話を取りながらメモを取る等「何かをしながら何かを並列して行う」ことが難しい。ワーキングメモリーが少ないとも表現される。

ワーキングメモリーの少なさは、コミュニケーションにおいて、「言葉の裏が読めない」 つまり空気を読んだり、言外の意図を察するということを極めて難しくする。

 

これは様々な情報を全体として捉える能力が欠如しており、部分としてしか捉えられないことが原因だ。

故に相手が今現在言ったことを字義通りに受け取ってしまい、周囲の状況と総合して考えた上で何かをするということが難しい。他者に感情移入することが極めて難しい点もマイナスに働く。

 

定型発達者はコミュニケーションを全体として捉える為、相手が今現在言っていることも、過去の発言も、周囲の状況も鑑みた上で、言外の意図も汲み取る。

これを行って始めて0点(当たり前)である為、自閉症者にとって定型発達者とのコミュニケーションは相当に厳しいのだ。

 

 

部分として捉える力が強い自閉症者は、決められたことを反復して行う「職人仕事」のようなものに適性があると言われている。

しかし現代日本では第三次産業従事者が最も多く、コミュニケーション能力や共感性、社会性、マルチタスクを当然のように求められる。

そしてそれが「常識」でマジョリティであるため、職人気質は排斥されてしまう。自閉症者とのコミュニケーションが難しいのは、本人が悪いのではなく現代の社会常識とあまりにも相性が悪いからなのだ。

定型発達という障害

さて、ここまでは定型発達者の目線で論じてきたが、定型発達者の振舞いが「現代における社会的な常識」だとしても、それが「正常」だと言えるだろうか?

 

「周囲の情報を無意識に遮断し、情報をフィルタリングしてしまう」

「言われてもいないことを勝手に想像し、他者にもそれを押し付ける」

「他者の気持ちや感覚を根拠無く妄想し、自己と同一化する」

「部分で捉えることをせず、全体として抽象化し、細かいところを見落としてしまう」

「自分の都合の為に、他者や世界にさえも歪んだ解釈を行い、嘘もつく」

「以上の価値感を他人に押し付け、達成出来ない者は排斥する」

 

上記は10000人のうち凡そ9624人が、産まれた瞬間から抱えている「定型発達」という障害の症状である。残念ながら現代の医療技術ではこれに対する有効な治療法はない。

 

定型発達者もスペクトラムの様相を示す為、自閉症などの発達障害の傾向を持つ者も多い。「ギリ健(ギリギリ健常者)」とも呼ばれ、彼らは同じ定型発達者から排斥されている。

定型発達者なのに空気が読めない、定型発達者なのにマルチタスクが出来ない など、その苦しみは凄まじい。

 

定型発達者として多くのものを求められつつも、それが出来ない。という人は多く、「アスぺ」と同様に扱われ、不快感や嫌悪感を持たれて社会から、のけものにされてしまうのだ。

 

 

このように高いハードルや理不尽な常識を押し付け、コミュニケーションにおいても分からないものを排除する社会は果たして正常なのだろうか。

 

「アスぺ」と呼ばれる人々が排斥されるのは、「あまりにも定型発達的すぎる現代社会」が作りだした一種の障害だと言えないだろうか。

 

障害を抱えているのは社会の方だよ

ほとんど上で言ってしまったが、おかしいのは「アスぺ」でもなければ「定型発達」でもない。定型発達者こそが常識だとしてしまっているこの社会の方だ。

 

発達障害者も、定型発達者もスペクトラムの様相を示しているにも関わらず、唯一の常識を定めてそれをみんなで押し付け合っているのでは、ほとんどの人が苦しむだけだ。だから生きづらい。

 

0点から100点まで人間を点数付けして、「100点から51点までが定型発達者です。ルールは98点以上の人を基準にします!!!」と言っているようなもの。

50点以下の非定型発達者は勿論、70点程度の定型発達者にすらルールを守るのは厳しく、どうしようもない。

 

上記は例え話だが、現実としてこのような状況だからこそ、「ギリ健」と言う侮蔑の言葉が生まれたように思う。

 

 

僕たちは唯一の正解や基準を決めず、余白を認めなくてはならない。

現在、「多様性」が叫ばれているが、多様性もスペクトラムだ。個別具体的に定義されていることを何でも認めることが多様性だと思われているが、(例えば同性婚を法律で定義すれば良いなど)それでは終わりが見えない。

 

ある程度曖昧に定義し、社会も個人も寛容になることこそが多様性に繋がると僕は思う。

さいごに

発達障害については以前から関心があり、僕自身も「受動型の自閉症寄りの定型発達者」である自覚があった為、思い切って書いてみた。

 

具体的には、

「臨機応変な行動やマルチタスクが絶望的に苦手」

「流されがちで相手から促されない限りはまず行動をしない」

「自己認識が足りておらず、自分がよく分からない。」

などなど…精神障害もあるのでギリ健ですらないかもしれないが(笑)

僕が発達障害と定型発達者について考えるのは当然だったように思う。

 

さて、職場や学校に「アスぺ」っぽい人がいるなあと思った方は、この記事を思い出して下さい。

そしてADHDや自閉症などの発達障害や、パーソナリティ障害・精神疾患について簡単で構わないので勉強して下さい。ググればちょっとだけ分かります。

 

僕たちは全員何かしらの障害を持っている、または持つことになりますので、他人事などと思わず理解しようとすることが大切です。

 

 

思考停止で、他者に努力不足を叫んだり、自己責任として突き放すことが無い社会になるといいなあ…

サポートは生活費に充てたいと思います。