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第二の脳

私が約5年使っているiPhone5Sは背面に穴が空いており、カメラと変な基盤ばむき出しで、外見から言ったら完全にぶっ壊れていると言って良い。ただ、まだインターネットを見たり、音楽を聴いたりという部分では、支障なく使えている。
そんな私のへなちょこiPhone5Sが突然SIMカードを認識しなくなるようになった。SIMカードを認識しなくなると、必然的にネットに繋がらなくなる。私が大好きなツイッターも見れなくなるし、ニコニコ動画も見れない。完全に音楽を聴くだけの文鎮と化すわけだ。
そうなると、ネット中毒者である私は猛烈に焦る。電車の中でどうやってインターネットに繋ごうか、SIMカードをどう認識させようか、四苦八苦する。挙げ句の果てにはGoogleでその方法を調べようとする。アホの極みである。結局、改善する方法は思い当たらず、家に帰って抜き差しを繰り返すことでようやく認識されたので事なきを得た。

しかし、インターネットに繋がっていないという状況に直面すると気持ち悪い感覚に襲われるものである。それはいわば、自分の身体の一部が欠けてなくなるかのように。本来そこにあるはずのもの、常時繋がっていることが当たり前のものがない、という感覚。そんな事を感じてしまうかのように、私の体は、そして脳はインターネットに侵されている。

思うに、スマホやパソコンやインターネットというものは、脳を人間の第一の情報デバイスとすれば、それは第二の情報デバイスと言えるのではないか。常にインターネットと繋がっていて、何を知るにもインターネットで調べ、本来人と人とが顔を合わせて行うコミュニケーションをインターネットを介して行わせる。かつて人は、それを脳を介して行っていた訳だが、現代は脳の前にインターネットが存在し、脳と同じ機能を行ったり、補助したりしている。現代の脳はインターネットと一つになっていて、それはもう身体の一デバイスなのだ、と私は思うのだ。かつて士郎正宗や押井守が表現した攻殻機動隊と同じ世界が既にもう出来上がっているのだと。違いはそれが物質的な意味で身体と一つになっているか、という一点くらいしかない。

ここで私が思うのはインターネット、つまり人間の第二の情報デバイスが崩壊したらどうなるか、ということである。私の場合はパニックになって、もう一度ネットと繋がろうと模索した。結局その場で治らなかったから、私は第一のデバイスである脳のみで思考にふけり、こんなことを考えているのであるが、まぁそれは置いておくとして。第二の情報デバイスであるインターネットが崩壊したら、多分多くの人間はパニックに陥るのだろう。私がそうなったように。そしてその時間をしばらく過ごした後に、脳のみで内省にふけって、脳でできることを探すのである。それは本を読むことであり、身近な人と直接話すことであり、運動することであり、寝ることである。つまり一時的にインターネットがなかった時代の身体のみの人間に戻って活動するということだ。こう考えると全くもってインターネットがない方が、人間にとって健全に見える。それもそのはずだ。インターネットは第二のデバイスになったが、それは地球全体を覆い、全ての人々に、まるで脳細胞のように張り巡らされ繋がっている。時間軸は一つになり、人もある種一つになった。人間はそのような状態にいることが想定された生物ではないだろうから、健全でないのも当たり前だろう。

しかし現実としてインターネットから完全に離れることは、もはや不可能である。それ程までに第二の情報デバイスは現実に侵食し、利用されている。だから我々はインターネットとの上手く付き合っていかなければならない。その為にはどうするべきか。私はスマホが一時使えなくなったことで、一つ考えを持った。それは一度ネットを捨てた環境に生き、第二の情報デバイスから縁を切った状態で情報を得る術を持つことだ。仮初め、人間は第二の情報デバイスから解放され、第一の情報デバイスで活動することに努めなければならなくなる。そうした時こそ、人間は人間に戻る。その過程を時折繰り返し行うことで、第一の情報デバイスを持つ人間としての生と、第二の情報デバイスを持つインターネットとしての生を生きながらえることができるのだ。

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