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書くことの距離



はじめに

これは昨年末に読んだ数冊の本に触発され、したためたものです。
本文では、その中で考えを進めていく直接的な拠り所となった、土門蘭さんの『死ぬまで生きる日記』を引用しています。しかし、同書の内容に触れている訳ではありませんし、土門さんが同書を通じて共有しようと試みたことを真っ向から受け止めて書いたものとも言えません。誤読とさえ呼べるかもしれません。
それなので、「部分を切り抜いてダシに使っているだけ」との謗りを免れないと思います。感想ですらないからです。
それでも、書くという行為の不透明さに向き合い、考える糸口を貰ったという実感を残そうと思い、文章をしたためた次第です。
その点をご承知おきのうえ、読んでいただけると幸いです。



書くことの距離

本当のことを書きたい、といつも思っている。
私が惹かれる「強い文章」というのは、本当のことが書かれた文章だからだ。
「本当のことを書く」とは、正直であることとは少し異なる。事実や感情をそのままさらけ出すというよりは、事実や感情をできるだけ素直に差し出すという感じだろうか。それなので、ほんの少しの嘘が混じっている場合もあるが、書く者がそれについて自覚的であるか、あるいは心から信じ切っている場合には、その文章は「本当のこと」になるように思う。

土門蘭『死ぬまで生きる日記』
生きのびるブックス ,2023, p.6


冒頭部分。
これはどういう意味なのだろう、と立ち止まる。

この部分は書くという行為に対する、著者の自己言及である。読み手と結びつく遥か手前の段階にあって、著者自身が自らに課した掟や指針のようなものなのかもしれない。
気になるのは二つ。「そのままさらけ出す」と「素直に差し出す」の違い。そして、後者による「ほんの少しの嘘」と「本当のこと」との関係性についてだ。「本当」「正直」「素直」「嘘」という、それぞれの言葉同士の距離感が独特なのだろうか、真っ直ぐ結びついてもよさそうな所に微妙な差異が生まれ、不思議な関係性を取り結んでいる。そしてそれらは、「本当(のこと)」をハブとしてゆるやかに繋がっている。

「素直に差し出す」と「嘘が混じって」しまうことがあるらしい。そして、それらは書く者の態度・姿勢によって「本当のこと」になり得る。
書く者が自覚的である嘘。あるいは本人が認識し得ないほど根本的か、仮に嘘であっても縁とするに足ると心の底から認められる嘘。「本当」の文字からつい反射的に「嘘」という対の言葉に目がいってしまう。 しかし、ここでは別に嘘の何たるかについて述べられている訳ではない。並んでいるのは、嘘を巡る書き手の主観的な状態についてである(だから、この名詞的な言い換えは適切ではない)。そしていずれの場合にも共通するのは、真偽の次元より意味や機能の面に重心が置かれている点であろうか。言い換えれば、嘘自体がどうこうというより、それに対してどう接するのかという関わり方に注意が向けられている。
自分が嘘をついていると自覚しつつ、その機能を享受すること。あるいは、嘘かどうか(真偽の審級)は二次的な問題で、全て引っくるめてどう機能し、どのような意味を持つのかで評価すること。それはつまり、自分に対してどう現れ、どのように働きかけてくるかという点において、自身の実感に忠実であるということではないだろうか。
もしそうであれば、「嘘」と「本当のこと」は別の次元に位置しているのかもしれない。引っくり返せば交換できるような関係性になく、片方が他方を抱合する、規定するような感じか。

ところで、嘘というのはつく側とつかれる側に跨る語彙である。言い換えれば、嘘が存立するには少なくとも二者が必要になる。
仮に両者を「書く―読む」という関係性に重ね合わせれば、前者が書き手で、後者には読み手が割り当てられるだろう。この図式をさらに先の引用に当てはめてみれば、取り上げられているのは専ら前者であって、その姿勢が「本当のこと」かどうかを決定する鍵になっている。
一方で、読み手はそれが果たして嘘なのかどうか、また嘘であれば何処がどの程度そうなのか知る術を持たない。読み手は書き手を信じるほかない。存在こそ朧気に感じているがはっきりと認識できない、彼方の世界の出来事のようである。
念の為に断っておくが、ここで「それが問題」だと言いたいのではない。繰り返しになるが、先の引用は著者が自身と向き合う為に採った方法論であり、その意図するところは「書き手―読み手」の関係性が成立するより遥か手前の段階に関わるものであると分かる。それにもかかわらず、こうして殊更に取り上げるのは、先の非対称性が「書く―読む」という関係性に絶えずついて回る根本的な条件であると思うからだ。書かれたものを通じてしか、読み手は書き手が見聞きしたことを知ることができない。ましてや、書き手がどのように感じ、考えたかなど知る由もない。読み手は書き手の視線や思考の運動を辿ることを通して、世界にひらかれていく。フィクション・ノンフィクションで程度の差はあれど、これは文章という形式で行われるコミュニケーションの前提である。
そして、同じことは一人の書き手の中、あるいは書くという行為自体についても言えるはずである。なぜなら、書くという行為はその都度読むということであるからだ。書く行為と書いたものの間には、絶対的な不透明さが横たわっている。
わたしは自分が何を見聞きした(ことになっている)のか、また自分が何を考えようとしているか、驚くほど理解していない。書くという行為に寄せれば、わたしが今から書こうとしているものは、予めわたしの頭の中にあるとは思えない。それらは書くことで像を結びだし、後になってから(つまりそれを読んでみれば)恰もはじめから存在していたかのように見出される。しかしそれは、やはり滞りなく一直線に結びつくものではない。冒頭の引用は、書き手と読み手の間に生じる不均衡と遠く共鳴しているように思われる。

今まさに川で溺れようとしている人は、その川の流れや深さを測り知ることはできないし、「今まさに溺れている自分」を描き出すこともできない。それらは自分自身を対象化すること、言い換えれば自分を「今ここ」から切り離し、距離を設けることではじめて可能になることである。
距離を取るとは、輪郭を把握することだ。シルエットが見えてくれば、それ以外のものとの関係性もまた見えてくる。ただし、そうしたからといって、その対象を理解することができるとは限らない。ましてや諸関係の全貌を把握することは不可能だろう。自分の置かれた世界を一望することはできない。これは、わたしたちが立脚する不可能性である。
それらを踏まえて考えてみれば、「そのままさらけ出す」のではなく、「できるだけ素直に差し出す」というのは、少し距離を置くことで見えてきたものを扱う、ということを指していると言えるのではないか。感情を剥き出しにした叫びや、生々しさが伝わるような唸り声そのものではなく、叫んだという「こと」、唸り声をあげたという「こと」として、事象を括弧にいれるような。そのとき、事象と共にそれを眼差す視線が意識に上る。視線に対する視線が生まれる時、視線の主体と客体が等質に扱われる地平も併せて生まれる。それはつまり、わたしに亀裂が入ることを意味する。
繰り返しになるが、読み手は書き手の言葉を通じて世界にひらかれていく。それは書き手自身も例外ではない。書くことは変換であり、どれだけ描写を緻密にしても、対象との間には隔たりが存在する。しかし、変換の仕方に自覚的であることは、対象との関係性に意識的であるということでもあり、書いたものを読むとは、対象とそれを認識するわたし、そして認識するわたしとそのわたしのあり様を眼差すわたしを生み出す行為でもある。
書いたものを読むことで自身が新しい在り方でひらかれていく。それは、書くことで取れた距離を見つめるということだ。私が書くようには、それを読む私は知らなかったのである。こうしてほんの少し、わたしはわたしではなくなる。言い換えれば、わたしの当事者性が薄まる。わたしは書くことを通じて非当事者になろうとしているのかもしれない。



補考という脱線


私にとって言葉は、石や木に近い、物質的なものとしてある。ハッキリとした手触りがあり、自分の外部にあって、独自のルール(原理)にしたがって動くもの。私はそれを使うが、それは私ではない。

自分が書いた文章を読み返したとき、自身の思考が目の前の文章に引き寄せられていく感覚がある。他ならぬ自分が書いたのだから、当たり前だと思うかもしれない。しかし、目の前にある文章は、当初考えていた内容とどこか異なっており、読むことを通じて思考が上書きされているような感覚が拭えない。書きながら読み返してもそうであるのだから、時間を空けて読み返したときなど、もはや他人のものとしか思えない。私が言葉を書き連ねるとき、言葉の運動に振り落とされないよう、それについていくことに全力を注いでいる。それは、自分の中から言葉が迸るように出てきて、それを追いかけるのが大変だというのではない。むしろその逆で、何も出てこないが故に、辛うじて紡ぎあげてきた言葉の流れに委ねるしかない、という意味においてである。例えるならば、庭を作ろうとしていて、目の前に岩があるから避けるしかないとか、ここに木が生えているので配置を変更しよう、という感覚に似てる。
言い換えれば、言葉は自然物に近い。決して不変ではないけれど、土台のように個人の思考の条件となるもの。そういえばよいだろうか。

そうした性質はどこから来るのだろう、と考えれば、言葉は多くの人によって使われるという、単純かつ当たり前の事実に行き当たる。
言葉はわたしの専有物ではない。それは広場のようなもので、あらゆる人が出入りし、留まることなく行き交う場所のようである。そう考えてみると、言葉を使って考えるわたしには、常にわたし以外に通ずる空間が開いているということで、元の考えというものだって本当にあったかどうか定かでない。もしかしたら、錯覚だったのかも分からない。
私は言葉という道具を使って、自分の思考を刻みつけようという意図で書いている。それは、個人の内面にかかわる、極めて私的な領域である。しかし、そもそも言葉が他者との共有物である以上、そうした密やかさは常に失敗に終わる。仮に自分以外の誰の目にも触れないものだとしても、言葉は他者とのコミュニケーションの可能性、私的なものを流通可能にする機能を持つ。その他者とは、自分自身も例外ではないのだ。書いたわたしの「私的」を、読むわたしが丸ごと受け取れるとは限らない。その間には、他者の領域である言葉が介在し、変換が生じているのだから。他ではないわたしは、言葉の中で、どこにでもいるわたしに変わり得る。しかし、私の言葉が他者に届くのは、そうした共訳可能性によるものでもある。これは同じ機能の発現場所(機会)の違いであって、メリット・デメリットとして、切り分けることはできない。

ここまで書いてみて、わたしは言葉の原理というか、力学のようなものについて考えようとしていて、言葉によって変化が起きるということを述べているのだが、相変わらず「当初」の思考というか、純粋に私的な領域という実体が何処かにあるということを前提にしている気がする。
例えば、思考A→言葉→思考A'みたいなモデルがあり、原初の思考Aを回復しよう、ということを言いたいのではない。かといって、ただそれを引っくり返して、原初の思考Aなど幻想である、と主張したい訳でもない。元の考えというものは、言語化した後に遡及的にあったことになる、という存在の仕方しかできないのかもしれない。それを否定する材料はない。一方で、思考Aは幻想に過ぎないのかもしれないが、わたしがそれに対してリアリティを感じているのも事実だ。どちらが真実なのかを明らかにしたい訳ではない。真実でも嘘でも、わたしが現にそれらを使っており、またそこから抜け出せないのなら、それらが機能してしまうとは、どういうことなのかが知りたい。つまり、どちらかではなく、両者が抱合される説明があり得るのかを知りたい。

例えば、こう考えてはどうか。私たちはまず主体としての自分があって、その自分がどう考えたり感じたかということを言語で表現すると考える、この考え方を逆転させる。つまり、私たちは不定形で流動的で放っておくと次の瞬間には次々に変化してしまう、変化とは何かとの比較だが、比較項との共通点を失ってそもそも比較が意味を為さない、というより原理的に比較が不可能であるような変転を遂げる「現象」であり、言葉によってそれを固定することで一つの形を留めようとする、というような。
私たちは言葉の周りをものすごい勢いで流れて行きながら、そこになんとかしがみつくようにして安定を得ようとしている。そう考えるのであれば、言葉は人間の外部にあるという始めの意味も重ねて、人間にとっての第二の自然と言えるのではないか。

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