ゆらゆら

ただ書くということがあるだけ、そういう風になれるといいな。

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最近の記事

書くことの距離

はじめに これは昨年末に読んだ数冊の本に触発され、したためたものです。 本文では、その中で考えを進めていく直接的な拠り所となった、土門蘭さんの『死ぬまで生きる日記』を引用しています。しかし、同書の内容に触れている訳ではありませんし、土門さんが同書を通じて共有しようと試みたことを真っ向から受け止めて書いたものとも言えません。誤読とさえ呼べるかもしれません。 それなので、「部分を切り抜いてダシに使っているだけ」との謗りを免れないと思います。感想ですらないからです。 それでも

    • ある男

      男は毎朝同じ時間に電車に乗り込み、車輌の連結部近く、進行方向に沿って備え付けられた長椅子の、風が吹き込んでこない端っこの席に身体を押し込んだ。電車に揺られている間、男はいつも窮屈な箱に貨物の如く詰め込まれている気分だった。男はその不快さから逃れるべく、電車に乗っているあいだは目を瞑り続けるのが常だった。しかしながら、男はごくまれに自分が予め決められた場所に整然と収まっているような、まるで何かに包容されているような気分になることもあった。そうした時、男は自分以外に何ものも存在せ

      • 手記より

        目の前にはセイヨウハコヤナギが一本、真っ直ぐ上方へ向かって伸びている。 幹だけでなく太い枝やそこから伸びる若枝までことごとく上を向いて、その先に付いている大きなスペードのような葉が、風に翻って表と裏を交互に光らせながら、一時も止まることなく揺れる。木は何かの間違いのように周囲の景色から異質だったが、他を寄せ付けぬ厳しさとは無縁にのんびりと超然的だった。地上に近い枝は一度幹から離れるように膨らんでから上昇を始め、反対に上部の枝ほど幹に沿って真っ直ぐと上に伸びる。だから、少し前か

        • バカみたいか

          例えば高校生の頃の私の前に未来人(2022年時点)が現れてこう言う。 「まだスマホなんて無いと思うけど、スマホがない生活ってどういう感じ?」 高校生の私は未来人をバカだと思いながら、何も答えることはできないだろう。そして未来人はその沈黙をもって、高校生の私をバカだと思うだろう。 スマホのない時代の直中にいる人間は、スマホがないことについての問いが存在するなんて思わない。そうした問いは、スマホが存在するから生まれるのであり、まだそれが成立する場所を与えられていないからだ。

        書くことの距離

          相も変わらずドキュメンタリーを眺めている

          どれをという訳ではないが、ドキュメンタリーを見ていると画面の中の雰囲気が統一されていると感じる。それを見ているこちら側も段々と気持ちが一色になっていくようで、テーマによっては番組が終わった後もしばらく引きずるようにそうした気持ち(往々にして暗い気持ちが多い)が持続する。 放送された内容はいずれも現実に起きていることなのだから、どれだけ暗澹たる気持ちになろうとも正面から受け止めるべきだ、というような意見は尤もである。私は反論しない。しかし、そうした事実を受け止めることと気持ちが

          相も変わらずドキュメンタリーを眺めている

          しかし、あなたは

          しかし、あなたはあなたがあなたであって、他の誰かではなかったし、これからもそうであるという事実を受け入れることができるのだろうか。

          しかし、あなたは

          雑感

          「インターネットに自分の意識をアップロードする」というようなSF作品を見たが、その作中、アップロードを試みた登場人物は、意識(精神)の移転と引き換えに肉体を捨てた。しかし、考えてみればなぜ肉体は空になるのか?肉体は脱け殻になるわけではなく、肉体を持つ「私」とネット上の「私」の複数になる、という方がしっくりくるのではないか?電子ファイルをやり取りするのだって、端末から元データが消えることはない。むしろ肉体に「私」を残さないよう徹底することの方が、技術としては難しいのではないか。

          茫と、ドキュメンタリー、旅

          このところ、衛星放送、しかもドキュメンタリーや旅番組ばかりを見ている。 いま、ここではない何処かの楽しんだり(画面に映るのは圧倒的に此方だ)、苦しんだりしている人々の暮らしのようなものを、暮らしの中からは出てこない眼差しで以て眺める。 こうして視聴者に届くのは、いわば出来事であって、しかし実のところ暮らしというのは、出来事と呼ぶにはあまりにも些細な、出来事未満とでも名付けるべき時間の連続であることは、実感として分かっているのだから、安易な羨望や理想化、感傷の投影は慎むべきであ

          茫と、ドキュメンタリー、旅

          ある日の

          「今流行りの◯◯って、知ってますか」 恐らく、相手が知らないことを期待して投げ掛けられる、それらの質問。もちろん悪意があるわけではないのだろうけど、この投げ掛けはそれ自体によって、両者の関係性を形作ることになっている。テレビなんかで見るのは、相手がきちんと正しい意味を知っているかの確認で、それは質問を投げ掛ける側と投げ掛けられる側が同じものを共有してるか、という幾重にも折り重なった、いわば答え合わせなのであるんだった。 だから、頓狂な回答が返ってきたときに、その正解

          ある日の

          かろし

          あなたが今日振り切った温度と 絶え間なく降りかかる遠近法 なにを どこに置いていったのか その空白は埋まってしまったの いまは「何かない」すらないわ 昨日投げたピンヒールを 明日折って拾いなおす 琥珀色が脱けて宙に浮かぶ夜が建ってるけど 今日は目移りしないと そう  亡霊は間違って正面から帰ってきて それで それで わたしはやっぱり気付かない 予め手遅れだった呼びかけ は置き去りにした 今日はなんといっても お気に入りなのだから 起きたらシーツのしわまで気に入らない トニ

          会話の練習

          「例えばなんですけど、ミルクティーについて、そういえばミルクティーのティーって紅茶だけど緑茶でもいいじゃん、とかって思ってそういうのって無いのかなって調べてみたら実際売ってたりするんですよ、新宿とかだったかな、それでそのお茶の話になったときに、どんな味がするかとか飲んだら感想教えてとか、なんなら目の前に実物があって、ああ結構イケるじゃんとか、うーんイマイチとかってなるより、ミルクティーのティーがグリーンティーなんてありそうで気付かなかったのは何でだろうとかミルク入れるなら茶葉

          会話の練習