短編小説『I saw a savior』
I saw a savior
カレーが食べたいにゃ!!!!!!と叫び出したい気持ちを抑えて、二本足で歩き、言葉を喋る、ねこのまち子さんは街を歩いていたわけですが、ここで実際に叫んだらどうなるだろう?ともまち子さんは思うわけです。
「カレーが食べたいにゃ!!!!!食わせろにゃ!!!!!」と街中でいきなり叫ぶ自分を想像するまち子さん。
すぐさまに治安当局がやってきて、捕獲され、刑務所もしくは保健所に送られる姿がまぶたの裏に浮かびました。
まち子さんはたまに思うのです。
街中で突如頭がおかしくなってしまい、何かめちゃくちゃなことをしてしまう自分を。
突然、頭がおかしくならないとは限らないにゃ、とまち子さんは怯えています。
もちろん頭がおかしくならないように生きようとはしています。
しかし、その発狂の予兆は生活の至る所で顔を出すのです。
例えば、百貨店を歩いていて、ガラス細工のお店に入ってしまった時に、よくない想像が頭に浮かぶのです。
ここで両腕を広げて、ぐるぐるとコマのように回転したら、ガラス細工はどうなっちゃうだろう?
「うにゃにゃにゃにゃにゃーーー!!!」と叫びながら、数多のガラス細工を薙ぎ飛ばすまち子さん。
騒然とする店内。
警備員が駆けつけてまち子さんのがっと羽交締めにして「はなすのにゃ!!はなすのにゃ!!」と叫びます。
床には粉々になりゴミと変わらなくなったガラス細工がただ転がっています。
まち子さんだって、そんなことしたくないのです。
でも発狂はいつ訪れるかわからないのです。
というわけで、今、まち子さんはカレーを食わせろにゃ!!!!!と叫びたい気持ちと戦っているのです。
まち子さんはふと思いました。叫びたい気持ちが発生している時点でもう発狂寸前なのではないかと。
あと少しでも心の抑止力が弱まれば叫んじゃうのです。
その状態は発狂と何が違うのでしょうか。
まち子さんはぞっとし、同時に、いいじゃん叫んじゃいなよほらほら、という気持ちにもなり、「あぁっ……」と叫びそうになった瞬間、ちょっと歩いたところにカレー屋があることに気がつきました。
まち子さんは半泣きになりながら、カレー屋に駆け込みました。
「いらっしゃいませー。お席空いてるところへどうぞー」
カレー屋hurry重の女将は半泣きで入ってきたまち子さんを空いてる席に案内します。
女将は「どうぞー」とコップに入った水を渡します。
まち子さんは「ありがとうございますにゃっ…」と言っては半泣きで水を飲み干すのでした。
女将は、なんでこのねこのお客さんはは半泣きで水を飲んでるんやろかと思いましたが、お客さんって色んな人やねこがおるからね、と思って流すことにしました。
こんっ、とまち子さんは水を飲み干したコップをテーブルに置き、メニューを眺め始めました。
・カレー
・カレー大盛り
・カツカレー
・カツカレー大盛り
・ビーフカツカレー
・ビーフカツカレー大盛り
・ハヤシライス
・ミンチカツ
・一口カツ
・焼肉定食
まち子さんはメニュー表のこれらの単語に何度も何度も目を滑らせていきました。
「カレーを食わせろにゃ!!!!!」と叫びたかったのは確かにまち子さんでしたが、どんなカレーを食べたかったまでは考えてなかったのです。
さっきまでは発狂寸前だったから、"どんなカレー"までを想像する余裕がなかったのです。
まち子さんは具体的にカレーを食べるという段階になり、戸惑ってしまったのです。
まち子さんをまたもや大きなパニックが襲い始めました。
頭の中でどんどんどんどん、と大音量のダンスミュージックが流れ、まち子さんはその音に合わせて頭を振り、身体を捻って、踊り出したい気持ちになってきました。
どんどんどんどん。とまち子さんの頭の中で4つ打ちのビートが爆音で流れています。
ふいにテーブルに置いてある福神漬けを詰め込んだ容器が目に止まりました。
もし私がこの福神漬けの容器を掴んでドアに向かって投げたら、女将はどんな顔をするだろう。
にゃぁ、にゃあ、にゃあ、にゃあ、とまち子さんの息が荒くなっていきます。
福神漬けを詰め込んだ容器に手を伸ばしていきます。
掴んだら駄目にゃ。掴んだら駄目にゃ。掴んだら駄目にゃ。
その思いを裏切るようにまち子さんの白い手は福神漬けの容器に伸びていきます。
どんどんどんどん。
にゃあ、にゃあ、にゃあ、にゃあ。
容器の端に手が触れました。
あ。
「お決まりでしょうか?」
女将が話しかけてきました。
まち子さんはそこで安心の片方で同時にパニックになりながら「あ、あ、カツカレーでお願いしますにゃ……、」と言って、女将は「はーい」と立ち去り、まち子さんは引っ込めた手を見ながらうなだれたのでした。
女将はカレー屋hurry重の厨房に行き「カツカレーが1つ」と言いました。料理人が「はいよー」と言って、火をかけている鍋のカレーをお玉で混ぜるのでした。
「それと……」と女将は続けました。
「なんだい」
「三番テーブルに座ってるねこのお客さん。ちょっとおかしいんだよ」
「おかしいって?」
「あぶら汗をかいて、にゃあ、にゃあ、って荒い息してさあ」
「ちょっと走ってきたんじゃないの?」
「なんか、目もきょろきょろしてるしさあ」
「あらそう」
「そうなのよ」
「でも、今のところなんかしたってわけじゃないんだろ」
「まあそうだけどさあ」
「そしたら、うちにできるのはカレーを食べさせることだけだねえ」
「そうなんだけど」
料理人は揚げたカツに包丁を入れていきます。
カレーは煮えたっています。
女将がホールに戻って、3番テーブルを見ると、ねこのお客さんは泣いているところでした。
お水のコップが空だったので、女将は近づいて「お水、お継ぎしますねー」とコップに水を注ぎます。
まち子さんは「あ、ありゃりゃとぉ、おじゃいましゅう…」と声にならない声で答えました。
まち子さんはカツカレーを待ってる間、つくづく自分というものが嫌いになっていたのです。
なぜ自分はこうなのか。
なぜいつも自分はこうなってしまうのか。
なぜすぐにパニックになってしまうのか。
なぜすぐに汗だくになってしまうのか。
もう何から何まで嫌だと思うけども、まち子さんは自分を捨てることができません。
まち子さんはたまに"自分を脱ぎ捨てる自分"を想像しますが、その想像は現実になることはないのです。
まち子さんは自分の背中にジッパーがあることを想像します。
そのジッパーを引っ張ると、まち子さんは嫌いなまち子さん自身を脱ぎ捨てることができるのです。
けども、そんなジッパーなんてない。
まち子さんを構成しているのはどこまでいってもまち子さん自身なのです。
どこまで逃げようともまち子さんはまち子さんから逃げることなんてできないのです。
まち子さんは息を荒くしながら、もし今ここが、銃社会だったらという想像をするのです。
まち子さんの手には拳銃があって、弾は6発入っていて、まち子さんは自分の頭に銃を突きつけて。
頭に突きつける銃口の感触。それは冷たいのでしょうか。それとも痛いと感じるのでしょうか。
引き金を引けば、カレー屋hurry重の壁に"まち子さんだったもの"が飛び散って、まち子さんはそのことにも申し訳ない気持ちになるのです。
けども、今、生きて続けて生き恥を晒し続けるのとどっちがいいでしょうか。
まち子さんは、どっちかわからなくて、頭に突きつけた拳銃の引き金に指をかけて、それで。それで。それで。
「カツカレーになります~」
女将がカツカレーを持ってきました。
その瞬間に、頭に突きつけていた拳銃は消え去って、まち子さんは「ありがとうございます」と言おうとしましたが、声が出なくて、会釈をすることしか出来ませんでした。
「やっぱあのお客さんおかしいよ」
「そうかい?」
「汗をだらだら流しながら、壁をじっと見てるんだよ」
「へえ。何を考えてたんだろうね」
「何って、大方、あのねこのことだから、拳銃で自分の頭を撃ち抜く想像でもしていたんじゃないかい」
「間違いねえや。あのねこのことだ、そんな想像をしていたに違いねえ」
「全く。死ぬなら別の場所にしてほしいねえ」
またです。また女将たちの会話です。
またまち子さんは女将たちがそんな会話をしているんじゃないかと怯えました。
女将がキッチンに入る度に私の悪口を言ってるんじゃないかってまち子さんは思うのです。
思えば、誰も彼もが私の悪口を言っている気がします。
まち子さんは耳を塞ぎましたが、その悪口は頭の中で発せられているので、耳を塞いでも意味がありませんでした。
まち子さんはぎゅっと目を瞑りました。
それで、頭の声を気にしないことにして、目を開けて、テーブルの上のカツカレーに意識を集中しました。
まち子さんはスプーンを持って、まずルーを掬い、ご飯と混ぜて、口に運びました。
それはとても美味しいものでした。
まち子さんは途端に嬉しくなって、ルーとご飯を口に運んでいきます。
世界がまるで一瞬で好転したかのような感覚がまち子さんを襲います。
全て、何も悪いことはなかったような気さえしてきます。
カツにスプーンを入れると、それだけで切れてしまうほどにやわらかいものでした。
一口大に切ったカツとルーとご飯を一気に頬張ります。
とてもとても美味しくて、涙が溢れてきそうでした。
いや、実際に涙が溢れています。
まち子さんはぼろぼろぼろぼろと溢れる涙に動揺しながらも、それでもカレーを食べる手が止められませんでした。
ぐすっぐすっ。うぇっ。うぇっ。と嗚咽混じりの中、まち子さんはカツカレーを食べ続けました。
嬉しかったわけでも、悲しかったわけでもありません。
ただ、現象として、涙が溢れて、そして止めることが叶わなかったのです。
それが情けないような、悲しいような気持ちになって、その気持ちはさらに涙になっていきました。
さっきの世界が好転した感覚はたった一瞬だけのものでした。
またまち子さんはどうしようもない気持ちになったのです。
まち子さんは20分近くかかって、やっとカツカレーを食べ終えることができました。
食べ終わって、この店に長くいてはいけないと思い、すぐに席を立ち、レジに向かいました。
女将がレジにやってきます。伝票を見た女将は「1200円です」と伝えました。
まち子さんは震える手でがま口財布を開けて、そこから1200円を取り出して、支払いました。
まち子さんは「ごちそうさまでした」と言おうとしましたが、嗚咽のせいで喉が締め付けられていて、声が全く出ませんでした。
扉を開けます。
女将が「ありがとうございました」と言う声が聞こえます。
まち子さんの目の前に、歩道と道路が広がっています。
店に入る前よりはましになってるような気もしましたが、同時に道路に飛び出したいような気持ちにもなりました。
道路をふいにぼんやりと眺めていました。
足が震えているような気もしました。
遠くから一台の赤い車がやってきていました。
まち子さんは、あの赤い車に今ぶつかったらどうなるだろう?と一瞬想像してしまいました。
その瞬間です。
赤い車がばうん!!!と大きな音を立てて、横転していきました。
がうんがうんと赤い車が跳ねていきます。
赤い車は跳ね回った挙句、止まっていたトラックの荷台にぶつかりやっと止まりました。
その間、凄まじい音がしました。
その音にまち子さんの背後の扉が開きます。
女将が店から出てきて、惨状を目撃して「あ!やだ!!救急車をはやく!」と店の中に向かって叫びます。
歩道から幾人かが、横転した赤い車に駆け寄ります。
割れた窓から、運転手を引きずりだします。
運転手は頭から血を流しています。
運転手を抱えたカレー屋hurry重の料理人が「大丈夫かー!」と何度も呼びかけています。
遠くから救急車のサイレンが聞こえてきます。
街は一瞬にして混乱状態に陥りました。
まち子さんは、その間、その赤い車を見ていました。
ひしゃげた赤い車を見ていました。
全ての窓が粉々に割れて、フレームはぐちゃぐちゃになって、オイルが道路に滴り、タイヤは空回りし、焦げたような匂いがするその赤い車を見ていました。
めちゃくちゃになった赤い車を見ながら、まちこさんは心がすーっと透き通っていき、落ち着いていく感覚になっていきした。
まち子さんは赤い車から目が離せなかったのです。
まち子さんはあの赤い車は私で、私はあの赤い車なんだと思いました。
私の全ての窓は粉々になっていて、私のフレームはぐちゃぐちゃになっていて
私のオイルは滴り落ちていて、私のタイヤは空回りし、私は焦げた匂いがしている。
帰り道、まち子さんは電車に揺られながらふいに「今度はオムライスが食べたいにゃ!!!!!」と叫びたい気持ちになりました。
まち子さんは、口に手をやって、ぐっと堪えて、流れる窓の外の風景に目をやります。
そして頭の中で、先ほどのぐしゃぐしゃになった赤い車を思い出しました。
ぐしゃぐしゃになった赤い車を思うと、「オムライスが食べたいにゃ!!!!!」なんて叫びたい衝動が減っていくのがわかりました。
良かったにゃ。とまち子さんは思って、それから涙をぼろぼろ流しながら、本当に良かったと思ったのでした。
私はあの車だ。
私はあの壊れた赤い車なのだ。