三浦氏の源平合戦での活躍について教えてください
おっけー、ザックリ行くよー
まず、どこから源平合戦かっつったら、まずは以仁王かなー。
以仁王の挙兵と三浦
この時父上は大番役で京にいて、数年ぶりもうすぐ帰れる! って頃だった。
そのタイミングで以仁王が挙兵なさって、帰るのが延期になる。
父上のその時の心境たるや、想像するだけでオレも泣きそう……。
以仁王の戦いの激戦区は宇治の方で、父上は洛中の警備だからほぼノータッチ。任期が終わって、三浦に帰る途中に頼朝様と会った。
ここでどう説得したのか、頼朝様は挙兵を決意!父上はその知らせを持って三浦に帰ってきた。
衣笠城合戦
そしてすぐさま兵を集めて挙兵をした……のだが……。
その時、相模国に台風直撃!! 今で言うなら京急が止まるくらいの台風でな。さすがの三浦も足止めを食らってしまったのだ。
海路ではいけないので陸路で行ったんだが、酒匂川が氾濫!! そして石橋山で頼朝様敗北の知らせを受けて、やむなく引き返したんだ。
その時……当時平家方だった畠山重忠( @Shigetada_bot )と鉢合わせ!
でもまぁ、一度は親族のよしみでお互い引きさがろうとしたんだけど……
ほら、当時スマホどころかケータイなんて誰も持ってないじゃん……。トランシーバーのトの字すらないじゃん……だからさ、後発隊がやってきて、攻撃仕掛けちゃったんだ……
んで、なしくずし敵に開戦して、双方被害者まででちゃって、一度撤退するんだ。
で畠山軍をどこで迎え討つか。和田義盛は怒田城を推したんだ。あそこは内つ海(東京湾)の玄関口で、船もいっぱいあったから。
でも義明祖父様は「衣笠城」に決めた。
衣笠城は居住の城ではなく、籠城には向いていないんだ。だけど、三浦一族の修行の場でな、家族や郎等たちの思い出がいっぱい詰まった場所なんだよ。
そこを祖父様は最期の地に選んだ。自分の首は頼朝様に捧げ、重忠の手柄にしろと。その代わり絶対に頼朝様に会えと父上たちを逃したんだ。
父上たちは船で安房を目指した。途中の会場で北条たちと出会い、猟島で頼朝様を待ったんだ。
ここまでの話は前に父上もしてるからこちらも参考に。当事者が集まって語ってるからより臨場感あるかも?
房総半島と三浦
その後、頼朝様と合流し房総半島で仲間を集める。仮の拠点は安西景益の家。安西氏も三浦党だぞ! それにオレの姉貴が嫁いでるんだ! ……あんまり会ったことないけれど……。
なので父上は頼朝様に「ちょっと梅雨払いしてきます」って、安房の三浦一族と呼び寄せた佐奈田一族で長狭を攻め落し、その佐奈田氏に領地を与えたんだ。 #ちゃっかり三浦党
ちなみに戦国の世で真田昌幸が安房守名乗ってたのこの関係だったりするのかなー。教えて戦国フレンズ!!
その後、千葉常胤殿や、上総広常殿が仲間になって、武蔵国側からぐるっと回って鎌倉へ!
途中畠山重忠と出会って味方に。三浦とも和解!
鎌倉を拠点に戦の準備をする。
衣笠城合戦から2ヶ月! 頼朝様は反撃の狼煙を上げて、富士川へ! 開戦前に平家はビビって逃げたり、義経殿と再会したりしたけど割愛。
頼朝様は平家を追撃従ったけれど、父上と上総・千葉のおジジが反対!
「金砂城を攻めましょう!」
金砂城
金砂城は佐竹氏の城だな。平家方だ。佐竹氏は房総平氏にとって目の上のタンコブみたいなものでな……それの排除とともに、頼朝様が「坂東の王」であると位置付けたかったんだろうな。
ちなみに事の時に歩く死亡フラグ行家殿と、ミスターカオナシ志田義広殿と会っているが不仲になってるようだ。
VS木曽義仲
その後、頼朝様はどちらかというと鎌倉のシムシティに力を入れていてな。平家が南都焼き討ちしたり、木曽義仲殿が平家を都落ちしてブイブイ言ってたら、義仲殿追討院宣が出たので、ついに出撃!!
ちなみに兄上初陣だよ!!
そして宇治川の戦いで三浦党の石田為久が木曽義仲殿を討ち取った! 木曽殿ごめんね3段落で倒しちゃった!
ちなみに石田為久の子孫を名乗ってるのが石田三成だよ!!
一ノ谷逆落とし
そしてついに平家追討に出る! ちなみに父上・兄上、和田義盛は範頼殿率いる大手軍。
佐原義連叔父貴は、義経殿率いる搦め手軍に従事していた。だから三草山の夜襲には叔父貴も参戦しているはず。
一ノ谷の合戦では、なんといっても佐原義連叔父貴の鵯越の逆落とし!
「この程度の坂、オレらは朝と夕に狩をしながら下りてるわ!! 三浦の馬場も同然!」
ヒュー!カッコいい!
ちなみにガチで、一ノ谷は三浦の馬場同然だった。加えて叔父貴は何日も山道歩いて急に目の前に海が現れたんだ。
「行ける行ける! ひゃっほーい!」ってなっても無理はない。
TV番組だと「できるわけない」って言われるけど、なんなら摺鉢山と衣笠山にそれぞれ来て比べて欲しい。
藤戸合戦
西へ西へと逃げる平家を追う鎌倉方! 義経軍にフォーカスしがちな源平合戦だが、実は範頼軍は岡山県倉敷市の藤戸で戦をしている。
佐々木憎けりゃ笹まで憎いでお馴染みの笹無山の舞台だな!
この戦で、平家は讃岐へと逃げた。
ちなみに藤戸饅頭はめちゃくちゃうまいし、藤戸にある佐々木盛綱像は絵師必見の一品だ。細部まで再現された武具を至近距離で360度見られる。
倉敷の美観地区からバス一本で行けるので是非連休などに検討して欲しい。
周防の拠点
その後、義経軍の屋島の戦いと同時期に範頼軍は周防合戦と地元民に呼ばれる、周防大島を拠点とした戦をしていたのだ。
……めちゃくちゃ激戦区だったのに何故かあまり描かれてない。何故か屋島の義経殿の活躍にばかりフォーカスが……
で、義盛があまりにも腹減って空気読まずに相模に帰りたがったり、父上が周防に留まれと命じられて「イヤです」とダダこねたり。
……父上な、あの時多分義朝様との別れと重なったんだと思うんだよ。この時の話をする時に「置いてかれるのは、もう二度とイヤだねぇ」って言ってたよ。
でも父上は命じられた通りに周防で待っていたんだ。そしたらそこに! 義経殿登場!!!!
シメた! と思ったかどうかは定かではないが、多分父上はこう思った。
(義経殿が命じてくれさえすれば、オレらも平家との決戦行ける!!)
「……ここらへん、流れ急でしょう? 三浦党が先導しますよ?」
というわけで、メディア関係から源平に入ったみなさーん!!
一ノ谷先陣は義経殿じゃないし、義経殿を壇ノ浦に送り届けたのは熊野水軍じゃありませんよー!!!!
両方とも三浦党ですよーーーー!!!!!
ここの父上をきちんと描いてくれた、遮那王義経の沢田ひろふみ先生と、深蒼海流のかわぐちかいじ先生、ありがとう! そしてありがとう!
あとは叔父貴の活躍を最初に描くのは誰か!! 乞うご期待!!
壇ノ浦
そんなこんなで、壇ノ浦!!
壇ノ浦では三浦がどんな活躍したのかは定かではないが、多分……多分だけど、三浦は戦闘員兼水夫だったんじゃないかなって思う。坂東一船の扱いに長けてると言っても過言じゃないし。
それから壇ノ浦ってそんなに広くないから、岸に残って矢を放つ要員も結構いたと思う。義盛は壇ノ浦での活躍が平家物語にも書かれてるな。
岸に立って、三町先の敵に当てたとかw 和田義盛って書いた矢文を放って、「それ返してみろよー!」って挑発したりなw
壇ノ浦の決戦後、範頼軍は門司に入って九州の御家人を集めている。その事務処理を義盛がやっていたな。
九州での戦後処理は結構広範囲で、宇佐八幡にもこの頃の話が残っていたのは驚いたなぁ……。
とまぁ、ここまでの現地探索をまとめたのがこれだよ
と、源平合戦の活躍はこんな感じかな? 質問はいつでも募集中だぞ!
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