沼田和也『弱音をはく練習』読んだ

沼田和也先生(ぐう聖)の新著を読んだのである。

タイトルを見ると、「弱音を吐くときはこうすればいいんですよ、さああなたもやってみましょう」という内容を想像するかもしれない。私は想像した。沼田先生キャラチェンしたんかなと思って読み始めたのだが、結論から言うと、看板に偽りありだ。

沼田先生自身があーでもないこーでもないと弱音を吐いたり、相談におとずれて弱音を吐露する人々にただ傾聴するしかできないとか、そんなことの連続である。どこにも練習なんてない。
最終章まで辿り着いたあなたには、沼田先生の非常に気持ち悪い告白という特典までついてくる。早く買って読むんだ。

そして随所で聖書が引用されるのが良い。大昔から人間の悩みはたいして変わってないんだなあと少しだけ安堵できる。

例えばヨブ記。ヨブはさんざん不幸な目にあって。あろうことか神に文句を垂れたり、訪ねてきた知人の助言に対して黙って俺の話を聞けときれてみたり、、、

あるいは創世記のカインとアベル。弟アベルの供え物に神が気に留めたことを嫉妬して殺してしまうカイン、、、妬みが恐ろしいのは昔からである。
カインは悔い改めようとするのだが、パルムドール受賞作『ミッション』を思い出したのだ。

NTR的展開から奴隷商人のメンドーサ(ロバート・デ・ニーロ)は弟を殺してしまう。そして、悔い改めようと犬猿の仲だったガブリエル神父(ジェレミー・アイアンズ)のもと神の道を歩もうとするのだが、、、

同じような話は新約にもある。放蕩者の弟が帰還して父にお祝いされるのを働き者の兄が嫉妬するというエピソードだ。

好き放題やってきたものがちょっと改心しただけでチヤホヤされて、真面目にやってきたものがほっておかれるのはアホらしい、、、というのが自然な感情ではなかろうか。私にもそういう感情はある。そして沼田先生はそういう陰性感情を否定してはならないという。

そうした暗い感情を抑えつけたら、本当に福祉を必要とする人々がいっそう救われなくなるだろう。

その上で好き放題やってるようにみえても、そうするほかなかった事情もあったのではないかと想像力を働かせましょうと仰っているのである。

そんな話になったのは前科7犯牧師進藤龍也師のことがきっかけなのである。師もまたやりたい放題やってきたのにメディアにチヤホヤされるなんてという批判を受けるそうな。だが師の生い立ちを知れば、そう簡単に批判できなくなるのではないか?と沼田先生は言っておられるのである。

進藤師の生い立ちはこの本に書かれているので気の向いた人は読んでみるといいのではないだろうか。

とはいえ、同じような生い立ちでも真っ当に生きている人もいるじゃないかという批判もありうるとは思うのであった。


福音書に関しては、パリサイ派について自分が無知であったことを思い知らされた。通常、パリサイ人とかパリサイ派は悪い意味で使われる。私も自粛だのマスクだのうるさい人たちのことをパリサイ派呼ばわりしたことがある。

パリサイ派はローマ帝国支配のもとで、信仰を守り抜くためにユダヤの法を重んじたユダヤ教の一派であった。法を守ることが信仰であった。

こう書くといまいちな感じだが、法を守るがゆえの善行も多々あったであろう。一宿一飯の恩義とか、貧しい人から高い金利をとってはいけないとか、そういうことである。

現代人は自由である。神様も誰も見ていないから、善行をしようがしまいが関係ない。
信仰があればいやいやでも善行をすることもあるだろう。沼田先生自身が経験した、ムスリムのそうした善行を紹介されている。

それを偽善というのは容易い。危ないことをしている人がいても、人それぞれだからと静観するのが政治的に正しいのかもしれない。だが沼田先生はこう仰るのである。

わたしたちは信頼関係のなかにあってさえ、その信頼を壊しかねない言葉や行為をもって、相手に介入しなければならないこともある。
誰かと関わりを持って生きていく以上、「人それぞれ」では済まないこともあるのだ。少なくとも、わたしはそう考えている。


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