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ゲイリー・P・リュープ著『男色の日本史――なぜ世界有数の同性愛文化が栄えたのか』のことを思い出した

今日はこんなnoteを読んで様々な想いが去来した。

長らく相互フォローであった方が、このように多様性に向けて進化を遂げているのは衝撃的であるとともに、人間の可能性を感じさせてくれるという点で啓蒙的であるといえる。

しかし彼がこのような方向へ発展していくことはある程度は予想できていたことではある。VRchatで相手のリアルな性別など気にすることなく会話を楽しんでいたようなので。テクノロジーはつねに進歩していくのだから、人と人との関わり方も変わらずにはいられないのである。

哲学者の千葉雅也氏はホモセクシャルを推奨していたし、これからも少なくない男性たちがその道を選ぶのであろう。

セックスにも男性文化と女性文化があると言わざるを得ないと思います。どうやら多くの女性はポルノみたいなセックスを求めていないらしく、男性のそういう妄想に付き合わされるのはたまったもんじゃない。これは経験的な勘ですが、男性のほうが即物的だと思います。ポルノみたいなセックスをしたいなら男とやったらいいんですよ。その方が簡単だし、問題も起きづらい

(太字は引用者)

男性と女性では求めるものがしばしば違っている。公的な領域においては政治的正しさを遵守することでそのコンフリクトは回避可能であるが、私的な領域ではそうもいかない。私的な領域のさいたるものであるセックスではなおさらである。

しかしこの本が出てからもう2年以上たっている。ついこないだ読んだような気がしていたが、時間がたつのは早い。

そういえば、その少し前に読んだのがこれである。

西洋人が日本の男色文化について書いたもので、よくこれだけ調べたなあと思ったものである。

江戸期に至るまで、日本では寺社や大名屋敷などで男色文化が爛熟していた。特に男女比が大きく男性よりに偏っていた江戸では、庶民にまで浸透し町民文化の一翼をになうまでに発達するのだ。

しかし明治維新以降、近代化とキリスト教的価値観の輸入(キリスト教にも男色文化はあるのだろうが)により、公には禁じられるようになった。あれだけ栄えた同性愛文化が急に途絶したのである。

ここからいえるのは性愛にかかわる物事は構築主義的な部分が少なくないということである。つまり下部構造もしくは上部構造に大きく依存するのである。生得的な要素に思っているほどは依存しない。人間は環境に作用を及ぼすし、その作用は逆に人間にも作用するのである。

それでは現代はどうか?文化的には性的志向の多様性を認めることが推奨されているし、技術的にはVRの進化により多様な性愛への入り口は至るところにある。そして社会には交際相手のいない男女があふれつつある。

したがって再び同性愛文化が繁栄していく土台は整いつつあると考えざるをえないのだ。

覚醒した相互さんのおかげで頭の奥底に眠っていた思考を呼び覚ますことができてよかった。

こうして自らの行動で道を示してくれる人物がいることは、ミソジニーを拗らせている男性たちにとって福音といっても過言ではないだろう。

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