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慣習なんて簡単に途切れてしまうものだ
先週末はなんとなくFacebookを見ていたら、むかしよく顔を出していた京都のバーがことごとく、緊急事態宣言にともなう休業要請をうけて臨時休業するとのお知らせを出していた。まあしょうがないよなあと思うし、もう今はそういうお店に顔を出すことも激減してしまったのでなにか言う筋合いでもない。
これが昨晩20時過ぎの鴨川です pic.twitter.com/0eDCQixHer
— むむ@白熱日本酒教室全3巻発売中 (@mu_mu_) April 25, 2021
飲み屋が閉まってるとこうなるよね。鴨川には人が等間隔で並んでいく「鴨川等間隔の法則」なるものがあるが、もはや無間隔である。ソーシャルディスタンスとはなんだったのか状態である。
もっともsocialの語源は交際とか仲間という意味であるから、distanceとは相性が悪いのである。
とはいえお店を開けるという選択をしたバーもあった。協力金をもらって休業するほうが経営的にも、レピュテーション的にも好ましいかもしれないのだから、難しい判断であったろうと思う。
もちろん休むという判断も簡単なことではない。協力金があれば即死することはないかもしれない。だがバーというものの機能を考えれば、これはとんでもないことである。
バーというのは仕事とか遊びの帰りにふと寄ってしまう場所だ。あるいは飲み会の前に少し時間をつぶす(0次会ともいう)場所だったりするかもしれない。こういう目的で利用するには、とりあえず開いているということがめちゃくちゃ大事なのである。
今日は良いことがあったから、あるいは嫌なことがあったから、真っ直ぐ帰る気分じゃなくてふと寄ってみたときに閉まっていると、たったそれだけのことで足が遠のいてしまうのである。バーテンダーたちがなにがあっても、どんなに客が来なくても、店を開け続けるのはそういう理由である。
平時であればあるバーになんとなく行かなくなってしまったら、他のバーに行くようになるだけである。ところがどこも開いていないとなると、バーに行くという習慣自体が無くなってしまう。しょうがないから家飲みするようになる。酔っ払ってそのまま眠れるし、お金もかからない、なんだ家飲みいいじゃん、バーはまあ時々でいいやってなるだろう。
多くの店が閉め続ければ、雰囲気の良いバーで美味しいお酒を飲みながら、店主や他の客と少し言葉を交わしてから帰宅するという文化は失われてしまうかもしれない。メシは独りで黙って食えと言って憚らない人々にとっては無くなってもかまわない文化なのだろう。そうなのかもしれない。かくいう私だってそういう習慣は無くしてしまった。
わずかな期間でなくなってしまう文化などたいしたものではない、守るべき伝統でもないという意見もあろう。だが伝統とか慣習なんて簡単に失われてしまうものである。10年か20年前の慣習で今はもう誰もやってないことなんて探せばいくらでもあるだろう。
祇園祭のような強固な文化であれば2,3年やらなくても失くなることはないだろうが、それでも不可逆的な変化は避けがたいだろう。
いろんなものが失われて取り戻せなくなる前に早く収束することを願うばかりである。
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