大人になるってなんだろうね

某アニメ映画が公開された影響か、一部界隈で成熟とか大人になるとかそういったことが話題になっているようだ。

私にとって大人であるとは、上掲記事に書いたような、持ち場を守るということだ。

それも主体性をもってやり通さなくては大人とはいえない。

この記事に書いたように20代の終わりのころ、とある地方の基幹病院で過酷な勤務を強いられていた。主体性も自律もなにもなく、日々終わらない業務に追われ、次々にやって来る緊急手術に怯える毎日だった。

当時あの基幹病院にいた同年代のものたちは一様にめちゃくちゃ働いていた。人員の確保がままならなかったからだ。もう私が退職してからずいぶんたつが、当時の上司に学会などで会うと今は人繰りもうまく行っておりそんな常識はずれの働き方ではないそうだ。けっこうなことである。

私たちは人員が確保されないとき崩壊の瀬戸際で耐え抜いた。しかしそこに主体性はなかった。だから、あの施設と地域のためにボロボロになるまで働いたのに感謝の言葉もないという恨み言が残った。それは今も心のどこかにくすぶっている。

主体性がないから、押し寄せてくる業務に対処するだけに終わったのだ。自分の満足や成長という価値観が中心になかったから、感謝の言葉が欲しくなってしまっていたのだ。自らの評価を自分の外側に委ねてはいけないということが当時はわかっていなかった。


今は違う。昨年末からの緊急手術の多さはたしかに外生的要因によるものだが、持ち場を守るという覚悟に支えられている。

緊急手術の多くは命に関わるものであるが、幸か不幸かコロナ以外の死亡はどうでもよいという社会では(当人とその家族を除いて)感謝されることはない。だがもう以前と違って私は大人なのでそれで恨み言をいうことはない。自ら覚悟して引き受けたことなのだから文句を言う筋合いではないのだ。
そしてその覚悟は極めて個人的なものである。理解されることを期待してはいけない性質のものだ。

しかし私は弱い人間なので、ただ業務をこなすだけでは主体性を保つのは難しい。

かつて先輩医師がどんなに忙しくても毎日自炊することで自律性を維持できたといっていた。その時は意味は理解したが身体で理解するというほどではなかった。

今はよくわかる。私は毎日英語学習や読書をすることで、自分をコントロールできているという感覚を持つことができているからだ。ただ忙しさに流されているのではないと確認できる。

というようなことが今の私の考える「大人」とか「成熟」というようなものの内実だ。あくまでも現時点の、ではあるけれど。


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