不要にされてしまうモノ

6月はじまた。

月初めから差が出るとか穏やかじゃないが、昨日の白饅頭さんの日記の内容について所感を残しておく。

私は今、基本的に家と職場を往復するだけの生活なのだが結構平気である。それはもちろん自分ひとりの力によるものではない。仕事に行けば私を必要とする人たちがいるし、家に帰れば家族がいる。コロナ明けたら飲みに行こうといってくれる友人はたくさんいる(明けるかどうかは知らんけど)。ありがたいことである。

それに英語の勉強してるだけで楽しいし、本を読むのも好きだ。

まあ特に困っていないというわけである。

これらはコロナが流行ってすぐに手に入ったものではない。独りでやっていける強さ、それを支えてくれる周囲を手に入れるまでにたくさんの時間がかかったし、無駄なこともたくさんやってきた。なにが有用でなにが無駄かなんてやってみなければわからなかった。やってもわからないこともいっぱいあるんだろう。

これからたくさん経験を積んで、そうしたものを作っていかないといけない人たちもたくさんいるのに、もう1年以上も行動を制限されてしまっている。本当に気の毒だ。

時間管理の本を読んでいると、会議は短くしろ、無駄な会議はするなと必ず書いてある。しかしいつも思うのだが、会議を短く切り上げても怒られない権力、短い会議で理解して動いてくれる上司や部下といったものを手に入れるのが大事なのではないだろうか。それには大変な時間と行動が必要になる。

そしてそこから弾かれる人たちもいる。なかなか人に会えない今日このごろだけど、ちょっと連絡取ってみようと思ってもらえる人とそうでない人がいる。この差はどんどん開いていくのだろう。

色々と制限される生活は、自分にとって必要不可欠なものを意識することになる。一方で不要不急なことも意識するかもしれない。そしてそのうちの少なくないものが、不要不急どころか、シンプルにいらないものになって忘れてしまう。

そうやっていらないとされたものの多くは、この騒ぎが終わったとしてもいらないままだろう。

自分としては、いらない人にならないようにする、万が一いらない人になっても自分で自分を支えていけるようにするということをテーマに今月もやっていきたいと思うのであった。

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