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『仏教思想のゼロポイント』読書メモ

魚川祐司さんの名著『仏教思想のゼロポイント』が出版されてもう5年になるが、このほどようやく3周目を読み終えたので読書メモというか感想みたいなものを書いておく。何度読んでも知的に興奮できる素晴らしい書物である。

本のタイトルは通常、出版社側が決めるものであるが、著者はこのタイトルにこだわったという。ここでいう仏教思想とは、上座部だけではなく、チベット、中国、日本、あるいは宗教色を配した形で西洋に浸透しているマインドフル瞑想のようなものも含まれている。
これらの多様な思想、文化を仏教とひとくくりにすることには無理があるなあと思っていたが、そこに参照点すなわちゼロポイントを措定しようというのが本書の試みである。
仏教はそのゼロポイントからの距離のとり方によって、多様で豊穣な思想や文化を生み出すに至ったのである。この視点により全然ちがうものがなぜ同じ仏教を名乗っているのかわかるだろう。

もう一つの本書の大きなテーマは、なぜブッダは死ななかったのかということである。詳しいことはぜひ読んでほしいのだが、個人的な感想としては、いいまでブッダと同じような境地に達した人はたくさんいただろうが、多くはひっそり死んでいったり、身の回りの人に伝えるにとどまったのだろうなあと思う。ゴータマ・ブッダだけが世界中に、現代に至るまで影響を残し得たのである。

簡単な内容の本ではないが、仏教用語、基礎知識については丁寧に解説されているので多くの人が楽しく読めると思う。不安な人は主に1、2章について超わかりやすく解説している『だから仏教は面白い』をまず読まれるといいのではなかろうか。

以下は個人的な読書メモであるが興味のある方は読んでいただきたい。

第1章
「絶対にごまかしてはいけないこと」というタイトルであるが、ここは重要である。ブッダは出家者と在家者で教えをわけていた。なぜなら渇愛を滅尽すれば生殖や労働もなくなるので、世俗とは極めて折り合いが悪いからである。ブッダの説いた教えは本来は世俗に激しく逆流するものである。これは日本で流布している仏教とは違う感じがするが、ごまかしていけないことなのだ。

第2章
悟りとは、三毒つまり貪欲、瞋恚、愚痴を壊滅することである。ここから始まって、有漏つまり煩悩の垂れ流しとか、無漏、悟りの四段階、
断ち切るべき10の結、10個の断ち切るべきものなどが解説される。さらに諸行は原因によって生じること、原因がなくなれば消滅することへと理解は進んで、原因を消滅させれば迷いの状態から解脱できる、つまり悟れるということになる。
全ての現象は三相、つまり無常、苦、無我からなっている。
無常とは原因によって生じたものは実態がないこと。
苦とは不満足であること。原因によって生じた欲望を満たしても常に不満足におわるほかない。
無我とは、自分の身体は自分のものではなく、コントロールできないこと。西洋哲学でいう他律に近い考え方。
原因は業によって生じる。業とは後に潜在的影響を残すような行為、作用。
衆生とは業にしばらる存在。業によって走り続けてまた業をなすのだから終わりがない。なんらかの逆方向の働きかけが必要になる。惑業苦。

四諦 苦の聖諦(苦諦)。苦の集起の聖諦(集諦)。苦の滅尽の聖諦(滅諦)。苦の滅尽に至る道の聖諦(道諦)。
苦諦 まず八苦のことを述べて衆生とは苦であることを解く。五取蘊とは衆生を構成すると同時に執着の対象となる5つの要素。
集諦 苦の集起の解説。その原因は渇愛であり、それは欲愛、有愛、無有愛に分解される。
滅諦 渇愛を滅尽させることを説いたもの。
道諦 渇愛を滅尽させる方法を説いたもの。ここで八正道が示される。

第3章
仏教の律についての説明。
善悪を超越することが目的であるから善をなすことを積極的に否定するものではない。悪をなせば縁起によって苦がもたらされるから推奨されない。
無産者の集団であるサンガが在家から援助を得るためには律が必要である。
しかし最上善である涅槃に至れば社会の価値観とは反することになる。
素朴な功利主義と世俗から非難を受けないことを基準として善悪を定めて生き残りを担保してきた。

第4章
無我というときブッダが否定したのは常一主宰の実体我である。
自業自得のような主体性とはあいいれないようにみえる。ブッダは我はないと言い切ることに否定的であるが、我があるということにも明確に否定的であった。有名な10の無記、4種10項目の形而上学的問いである。ブッダはこれらには答えず、四諦を説いた。
常一主宰の実体我ではない経験我は否定しなかった。いいかえれば個体性でり、無常の経験我、流動し続ける場のこと。無常の現象の世界の中に実態的・固定的な私があると思い込み、それに執着することを否定した
原因と結果の連続はある種の潜勢力となり、死後にも引き継がれていく。ここに常一主宰の実体我が介在する必要は全くない。無我だからこそ輪廻する。
輪廻するのは業による現象の継起である。そこに固定的な実態は含まれない。輪廻とはいまこの瞬間も起こり続けている現実であって、転生の瞬間だけではない。
業と輪廻の世界観を前提としないならば、苦から逃れる最高のソリューションは自殺だが、しかし自殺はその悪行によって事態をむしろ悪化させる。

第5章
ゴータマにとっての世界とはなんであったか?凡夫の六根六境(十二処、十八界)の形成する認知全体が世界。そのどれかを我であるとみなすとき、世界は常在であるとの形而上学的認識が出てくる。
十二処の滅尽であり、苦と世界の終わりである境地、現法涅槃とはなにか?
現法涅槃は、六根六境が滅尽したが認知がなくなったわけではなく、分別の相がなくなった状態。

個々の認知が私という統合の中心を得ることで、世界という物語が形成される。統合の中心がないなら、ただ継起する現象のみとなる。世界が滅尽すれば存在や非存在についての問は無意味になる。
放っておけば執着へと流される煩悩の働きにまず自覚的であること。つまり気づき保つことが重要である。これを根絶するのに必要なことは智慧であって、仮に内面に貪欲がおこったとしてもこれを自覚してただの現象であると気づくことで、執著に発展するのを止めることができる。

第6章
ゴータマ・ブッダやその弟子らにとって解脱・涅槃は決定的で明白な実存の転換であった。日本では諸事情により正面から検討されることはあまりないものの、外すことのできない基本的な特徴である。

貪欲、煩悩を自覚してもただちにそれをやめられるわけではない。煩悩の流れを塞ぐこと、滅尽することが必要になる。そして渇愛の完全なる滅尽は明白に経験される実存の転換である。流れを根絶するには、流れを自覚するのとは別の決定的な経験が必要である。

決定的な経験は智慧によってもたらされる。智慧とは禅定が三明の前段階。定の強烈な集中力に裏付けられるもの。如実知見は、概念的思考や日常意識を禅定の集中力によって来れたところに認知されるものだから、そこで生じる智慧が思考の結果ということはありえない。

割愛を現実に滅尽することを目標とする実践者の観点からすれば、有為の世間と六の出世間に明確な断絶がある。達成可能な目標としての解脱を提示するなら、世間と涅槃の明白な区別は全く自然である。
ゴータマ・ブッダの示した方法で同時代の真剣な修行者も涅槃に至った。現代でも同様の体験が世界中から報告されている。

ゴータマ・ブッダは解脱しても死なず、現実に老いて死んだ。もはや輪廻が繰り返されることはなく、この生で終わりと確信したからだ。これらは言語の領域を超えているために究極的には証明不可能である。
仏教思想のゼロポイントとはブッダの到達した無相であり無為の境地である。以後の仏教はここからどの程度の距離をとるかという問題をめぐって展開していくことになる。

第7章
ブッダはなぜ死なないばかりか、衆生に仏教の宣布を始めたのか?
悟ったものは正負いずれの方向へも執着することがないので、生を愛好することもないが、ことさら嫌悪することがないので死ななかった。

ブッダは自分の思想が世の流れに逆らうものであることを知っており、布教はしないつもりだった。しかし汚れの少ないものもいることを知り、一部のものに教えることにした。これは必然ではなく、開教することなく一生を終える可能性もあった

物語の世界に積極的に介入する利他の実践と、世界は縁起の法則にしたがって継起するだけの中立的な現象と観る捨の態度は、いかにして同一人物のなかで両立していたのか?これらを乖離とみるところに、物語の世界の枠組みがこっそり入り込んでしまっている。
無意味だという言説が成立するのは、なにか有意味なものがあるということを前提にしてしまっている。すべての事柄に意味はないなら、無意味だということにすら意味は存在しないはず。

抜苦与楽は、遊戯三昧という言葉からもわかるように遊びの要素がある、自由闊達の境地からくるものである。そこには選択の余地がある。あるものは一人で死ぬし、ゴータマ・ブッダのように一部のものに教えるものもいるし、大乗仏教のように広く救おうという発想もある。

第8章
大乗仏教はなぜ仏教を名乗る必要があったのか。
本来性とは涅槃の高い価値。一方で、現実性、涅槃の境地から反照された現実性にも高い価値を認めようとする人々がいた
しかし現実性の重視は、あくまでも本来性の見地から、その視点を内に宿した遊びとしてである。そうでなければ仏教である必要がない
現実性へと関与するさいの立脚点がゴータマ・ブッダによって示された本来性になければならない
しかし東アジアの大乗仏教、禅によくみられるように、本来性と現実性の区別を無効化するものもある。そしてこの区別の捉え方にもバリエーションがある。このようにゼロポイントからの距離のとり方があ仏教の多様性にもつながっている。例えば上座部圏のタイとミャンマーでも差がある。

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