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#218 蹴球論23|2000年 シドニーオリンピック〜1cmの差〜

シドニーオリンピックは、前回1996アトランタ大会を経験した松田中田英、そして何と言っても1年前の1999ワールドユース ナイジェリア大会で準優勝した黄金世代稲本酒井本山中田浩高原)、そして百戦錬磨のオーバーエイジの楢崎森岡三浦淳という鬼メンバー。


小野は怪我ですが、満男など実力者も漏れ、遠藤ヤットですらバックアップメンバーという層の厚さで、かなりメダルが期待できた磐石の体制でした。


監督:フィリップ・トルシエ

  1  GK 楢崎正剛(名古屋)☆
  2 DF 中澤佑二(V川崎)
  3 DF 松田直樹(横浜M)
  4 DF 森岡隆三(清水)☆
  5 DF 宮本恒靖(G大阪)
  6 MF 稲本潤一(G大阪)
  7 MF 中田英寿(ローマ) 
8 MF 明神智和(柏) 
9 FW 平瀬智行(鹿島)
10 MF 中村俊輔(横浜M)
11 MF 三浦淳宏(横浜M)☆
12 MF 酒井友之(市原)
13 FW 柳沢敦(鹿島)
14 MF 本山雅志(鹿島)
15 MF 西紀寛(磐田)
16 DF 中田浩二(鹿島)
17 FW 高原直泰(磐田)
18 GK 都築龍太(G大阪)


シドニーオリンピック アジア予選

もう虐殺です笑
とにかくこの時期のU-23はクソ強く、12戦戦って66得点3失点という無慈悲極まりない地獄のようなスコアで勝っております笑

印象に残ってるのは、吉原宏太(当時札幌!)が点を決めまくったのでA代表に呼ばれてコパアメリカに行ったこと、小野がクソみたいなタックルで怪我をしてしまったこと、柳沢が途中で宿舎を無断外出(梨花に会いに行った)してメンバー登録を抹消されたこと笑

そして最終の決定戦で、カザフスタン戦でのヒデと俊輔の「口じゃんけん」ですね(サムネイルでガッツリヒデが指示してますが笑)

とにかく強すぎる感じで本戦出場。


グループリーグ

初戦 南アフリカ戦

初戦はマッカーシーフォーチュンがいて割と調子の良かった南アフリカ。
日本は3-5-2で挑み、GK楢崎、DFが中田浩、森岡、中澤。MFが稲本と明神がボランチで、左俊輔、右酒井でトップ下がヒデ。FWは高原&柳沢。
この頃は中澤の方が松田より序列は上だったんですね。

早々に先制されるも、俊輔のFKから高原が同点に追いつき、そして何と言ってもヒデのビューティフル・スルーパスから高原!熱すぎる!

そうして初戦を逆転で勝利する最高のスタートを切りました。


2戦目 スロバキア戦

激戦のヨーロッパで予選を突破したスロバキア。
前半を0-0で折り返し、後半左サイドの三浦淳のビューティフル・クロスからヒデがダイビングヘッド
後の2002年のチュニジア戦を彷彿とさせる流石のゴールで先制。
そして2点目は今大会絶好調の高原が相手GKと1vs1でシュートで止められたところを、ボランチの位置からゴール前まで走って押し込んだ全大会の伊東テルを彷彿とさせるゴールで稲本が追加弾!
そして終盤で1点返されるも、2-1で逃げ切り2勝目!

ここでブラジルも南アフリカを倒して、2勝同士で「金持ち喧嘩せず」にしようとしていたものの、ブラジルが南アフリカに負けたので・・・決勝トーナメント進出は最終節まで持ち越しに。


3戦目 ブラジル戦

この試合は森岡とヒデが累積警告で出場停止という展開ながらも、ちょうど休ませる意味ではある種良かった感もあり・・・挑むは全大会同様グループリーグに同居してしまったブラジル先輩。
この時、ブラジルには若き日のロナウジーニョがいました。
早々に先制されるも、そこからはお互い「見」の状態で試合終了。

で、スロバキア vs 南アフリカは、南アフリカが負けたので、2勝1敗で得失点差2位でグループリーグ突破!!


決勝トーナメント

準々決勝 アメリカ戦

実は僕、このアメリカ戦見ていないんです。
当時高校2年生だった僕は修学旅行の初日の移動とかぶっておりまして、しかも旅行先が生意気に海外だったので、情報が隔離された飛行機で移動し・・・降りたら「日本負けたみたいよ」という友達からの第一報で敗戦を知りました。

柳沢のゴールで先制し、追いつかれ、高原のゴールで勝ち越すも・・・後半にPKを決められて同点になり、そして延長でも決着がつかずPK戦になり、4人目のキッカーのヒデが蹴ったボールはわずか1cm足りず、ゴールポストに嫌われて4-5で試合終了。
最強と言われていたチームであり、圧倒的に押していた展開だったものの、PKは本当に恐怖です。


その後

まさか優勝がカメルーン(OAでエムボマ)とは思ってもいなかったですね。
準優勝はスペイン。99ワールドユースを制したメンバーが躍進し、引き続きの好成果でした。
オリンピックでいうと、過去大会を見てもやはりこのメンバーが最強だった記憶が未だにありますが、そうはいかないのが勝負の怖さですね。

しかし!
結果としてこの時のメンバーはほとんどのメンバーが2002のメンバーに入り、そこで旋風を起こしてくれるので、この敗戦は糧になったのでしょう!


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