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ニューカレドニアは今?大統領ルイ・マプ―の声明から読み解く(2)

(冒頭の画像はニューカレドニア、マレ島の民宿。絶景の見える民宿としてカレンダーの景色になったりで地元では名が知れていたが、少し前にコミューンの人々の神聖で大切な場所で金儲けは許されない、ということで営業が停止となっている。これだからカナクはいつまでも発展できないのだととるか、金で伝統と環境は売らないカナクは立派だと見るか、今回の問題の背後にはこういった問題も絡んでいる。

以下は注16以降の続きです。注1‐15は前稿の記事を参照ください。マプ―大統領の声明は冒頭に全文を置きます。今回は注16‐23までです。

ニューカレドニア政府発表のマプ大統領の声明の原文はこちら。→https://gouv.nc/sites/default/files/atoms/files/2024.06.08_discours_pgnc.pdf

2024年6月8日
ニューカレドニア政府大統領(注1)の声明

こんにちわ、そして皆様のご拝聴に感謝します。

まずはじめに、ニューカレドニア政府を代表し、最大限の悲しみとお悔みをお亡くなりになられた8名(注2)の方の、今、喪に服しておられるご遺族にお送りいたします。6人のニューカレドニア人のご遺族、そのうちカナク人の5遺族(カナラからの2家族、マレ島から1家族、ポワンディミエから1家族、パイタから1家族)とカアラ=ゴメン出身のヨーロッパ系カレドニア人の1遺族、そして、我が邦で殉職された2人の警察隊のご遺族に。

特に、私たちからつい先日、去ってしまったパイタ出身の青年に、私は特別な思いを抱いています(註3)。私は彼のご両親を知っていて、彼らはパイタの大首長国(註4)の出身だったのです。

私は、この危機の中で、欠くべからざる医療を受けられず、不慮の死を余儀なくされた多くの人々のことを忘れません。(注5)
さらには、今回の衝突のために多くの市民や兵士が負傷しました(註6)。そして、同様に私の思いは、家や財産に火を放たれ、略奪された家族の方々にも及んでいます。さらに、職を失い、あるいは間接的であれ職を失う危険にさらされている600の企業と7,000人の従業員(註7)に対して、政府の連帯と支援を表明したいと思います。私は、彼らを救援するために動く政府としての意思とその意志を保証します。

5月13日以来、昼夜を問わず、現場で生命や財産を守るために身を捧げ、懸命の努力をしててくれたすべての人々、安寧と物資供給の確保のため、そして、最も孤立し、あるいは貧困しきった人々、老齢や病弱な人々のため救援、物資の供給、そして保護のために動員されたニューカレドニア行政当局、州、村、そして(フランス)国家のひとりひとりの職員のみなさまに、そして命さえ惜しもうとしなかったすべての人々に、感謝と称賛、そして支援を表明したい。私はまた、非常に困難で異常ともいえる状況の中で、私たちの住民を助け、ケアするために働いている医療従事者の方々にも感謝の意を表したいと思います。

また、邦外(注8)に取り残され、この状況に対処するのに苦労しているカレドニア人(注9)のことも、ニューカレドニアから本国への帰還を待っている外国籍のニューカレドニア在住の人々のことも忘れていません。そしてワリス・フツナ諸島とフランス領ポリネシア(註10)に住む、まだ本国に帰ることができていない同胞のこともです。私は彼らの問題を解決すべく、ニューカレドニア政府として力を結集することを保証します。また、帰国しなければならないフランス本国の人々も同様です。(註11)

5月13日の出来事の当初から、わが政府の反応は、犯罪行為は糾弾し、暴力も、そして家族、そして企業や公共インフラのための財産やサービスの破壊も、決して支持されないということでした。慣例上院議長(注12)とともに、私たちは度重なり、宥和と冷静、流通の確保と基本的なサービス、特に保健、医療への住民によるアクセスを容易にするため、道路封鎖、バリケードの解除を求めてまいりました。さまざまな今回の危機への対処を担当するニューカレドニア政府のメンバーは、公的・経済的、そしてフランス国家のパートナーとともにこの事態に対処するため、私たちが行っていることを、住民に周知させ続けるべく、日々、最後まで働き続けました。

また、勇気をもって理性と宥和、そして冷静さを訴えてきたすべての善意の人々に感謝します。この危機的状況、誰もがこれほどの規模で、痛ましいまでの衝撃を持ち、人々の日常生活への甚大なまでの影響を予想することもできなかったほどの危機を、ニューカレドニアは24日間も生き続けています。フランス共和国大統領(注13)がニューカレドニアを5月23日に訪問してから2週間が経とうとしていますが、我が国の責任ある政治指導者たちによる宥和への、そして鎮静化への取り決めへの道筋も、いまだ事態の回復には至っていません。

さらに政治面では、独立運動、特にFLNKS(=カナク民族社会主義解放戦線)(注14)と各政党は、態度を明確にする人がほとんどおらず、それゆえ今回の事態への動きはあまりに慎重であると私は考えます。他方、忠誠派と集合派の反独立派(注15)については、その主張や行動において、常にあれかこれかの扇動による対立激化を得意とし続けており、それが既存の暴力的風土を助長している。

このような背景から、市民は財産、家族、家、企業を守るために、危険なまでに自らの武装組織化を進めてしまっている。こうした不安を背景に、必要物資補給に取り組むための武装自主連帯行動が出現し、その深刻さはかつてないレベルに達しています。こうした状況はもはや耐え難い。というのは、住民、特に内陸部や部落(トリブ)の、近郊の最も困難な地域に住む人々こそが主な被害者なのですから。この1ヶ月間、大多数の労働者は職場に行くことができず、7000人以上の従業員が職場の火災によって職を失いました。状況は非常に緊迫しており、1980年代から都市近郊で暮らしてきた人々の間に築かれた絆は緩んでしまい、その中で、あの人種差別という古い悪魔が再び姿を現しました。我が住民たちの対立が避けられなくなる過程に陥らないためにも、一刻も早くこの状況を打開する必要があります。(注16)

私は、冷静さと宥和を呼びかける役割を果たせるすべての個々人、団体、政党、あらゆる宗教、慣習等(注17)の勢力に理性と責任を訴えたい。今日、わが邦は、これまで経験したものとは比べるべくもないような性質と規模を持つ、人間的、心理的、家族的、慣習的、経済的、そして社会的影響の重たい代償を支払うのです。

疑いなく、(フランス)国家権力によって一方的に決定された地方選挙制度に関する憲法(改正)は、私たちが長い時間をもって考え、傷を癒やしてきた傷口を再び開きました。この確認は大変な痛恨、悲しみでした。というのは、私たちはこのことは1988年以来の私たちの仕事のやり方に反するものであり、フランス国家の一方的な主導は問題を引き起こすとずっと言い続けてきたのですから(注18)。残念ではありますが、現在のこの(暴動の)事態(注19)は、我がニューカレドニアが憲法草案作成過程に参加ができなかっただけに、私たちがより正しかったことを証明しています(注20)。1984年のルモワン法、1987年のポンス法での地位制定時も、同じような一方的な決定がなされ、それが1984年と1988年の困難な事件(注21)を引き起こしました。かくのごとく、 35年経った今でも、私たちは自分たち自身の歴史から全く何も得ていないのです。

およそ1000人が逮捕され、約60人が服役しています。その大多数はカナクであり、刑務所内での困難はさらに大きくなるでしょう(注22)。
恐怖が住民を支配し、彼らは身を守るためにバリケードを築きました。学校は閉鎖され、2024年に、否定できない精神的な傷跡をもたらすでしょう。公共施設も、大学、学校なども焼き払われました(注23)。
私たち自身の、私たちの間の、そして私たちの邦に対しての信頼は深く傷つきました。わが邦内のすべてのコミュニティの家族の間に、長年に渡って紡がれた絆も影響を受けました。



私は、独立運動家たちに向かって、大きな敬意を払いながら、申し上げたい。皆様がこの邦の改革に取り組むよう、私たちに要請してくださったのです。しかし、今回の事件の結果は、私たちにとって悲しみしかもたらさなかった巨大な集団的混乱を明白にしてしまいました。この40年間、私たちが苦労して築き上げてきたものすべてが、まるで何物でもなく、全くの無価値であるかのようだ。私は、私たちが長年取り組んで目指した解放が、すでに達成できたことの破壊の上に築かれるとは、ただの一瞬も信じたくない(注24)。人命の代償は、そもそもこうした事件を引き起こした目的のために払うには高すぎると私は思っています(注25)。しかし、平和的なデモは大きな尊厳と誇りをもって成功しました(注26)。死者8人、双方の負傷者数百人、逮捕者1,000人近く、投獄者60人以上という大きな犠牲者を出したことを、今後、誰もが自問し心の中で考えねばなりません。

疑いなく、引き受けるべき責任の大部分は、この邦全体の政治運営にあります。独立派政党の指導者たちは、今後数日間のうちに会合を開き、状況を検討する予定です(注27)。このような事態を収拾するために、今回の事件で彼らの実働部隊であるCCAT(注27)に協力をさせることを、そして情勢を回復させるために事態鎮静化を支持する若者たちとも協力することを約束するよう求めたい。
わが邦はすでになんと多くのものを失い、多くの苦しみを味わっていることでしょう。復興は難しいものとなるでしょう。なぜなら、ニューカレドニアはすでに困難な状況にあったからです。(注28)それゆえ、 私たちはとても迅速に仕事に取り掛かり、復興に全力を結集する必要があります。そのために私たちがかけねばならぬ資金と人的資源は莫大なものになるでしょう。

カレドニア人の青年たちの新たな世代、特にカナクの青年たちが、ニューカレドニアの未来に関する政治的な議論に突如として登場しました。ある意味で、彼らは今、ニューカレドニアの歴史的な転換点を作ったのです。ただし、その代償として、彼らのために意図されていた多くの成果は破壊された。よろしい。この危機は、1988年と1998年の合意(注)以降に実施された公共政策の不十分さを明らかにしたのですから。確かに、彼らは政治等の責任者の刷新を要求している。我々は、責任の行使と国政を行う際には、彼らに耳を傾けなければならない。 しかし、私は、若者たちが謙虚さを示し、両親や年長者たちが築き上げた重い遺産を尊重するよう要請します。実際には、私たちが生きる世界では、その邦とその歴史からは免れず、その複雑さゆえに、多くの自己犠牲と一定の自制が求められているのです。

今回の事件の原因である憲法に関してです。1984年と1988年の事件の後、それらの事件は1988年以来、曲がりなりにも歩んできた道を、協定の調印の背景となった、ニューカレドニアの平和と安定の維持を規定した原則からいかなる形であれ逸脱させてはならないことを私たちに思い起こさせてきました。また同様に、明日のニューカレドニア、その人々、そして人々の共生の建設は、決して選挙の賭けや国や地方の権力を得るために利用されてはならないことを思い起こさせてきました。

(フランス)国民議会も、中央政府も、フランス共和国大統領も、フランス海外領土のすべての人々と同様に、ニューカレドニアの深部からの、その先住民族の、そしてその共同体の声に耳を傾けることが絶対不可欠であること、人口統計上の無視できる数でないこと、ニューカレドニアの歴史と太平洋における今日の位置づけを考慮すること、こうしたことを理解するのに、このような事件が必要であろうことは実のところ残念なことです。オセアニアでは、蔑視が前向きで創造的な原動力を育む大地になったことはない。
フランス共和国大統領と各国代表は今、この憲法がマティニョン協定とウーディノ協定以降のニューカレドニアの最近の歴史に反していることに同意しなければならない。なぜなら、歴史的に称賛されたこれら2つの協定と同様に、この憲法(改正)は、この国の脱植民地化と解放のプロセスという偉大な目的を追求する全体的なプロジェクトの不可欠な一部でなければならず、そのため、もはや不要なのです。もう一度、言います。これらのふたつの協定以来、選挙民は「ニューカレドニアの人々とその市民権の建設に」尽力してきたのだから、この法律は不要なのです。究極のところ、選挙民とは、解放と脱植民地化のプロセスに奉仕する公共政策を提案することを第一の使命とする、ルーツに根ざした地方議員の選挙に影響を与えるため、極めて重要なのです。2024年5月の事件は、選挙民の件をこの政治的次元に引き戻したというメリットがありました。そして、この憲法は、私に言わせて頂くのであれば、継続することは許されません。フランス共和国大統領は、危機を終結させるため、2024年6月末にこの邦の情勢の進展を総括するための面談を設定したので、2024年末に地方選挙が実施される可能性は低く、予定されていたスケジュールはもはや実現不能です。

加えて、国内外の当局・機関がニューカレドニアの歴史に内在する課題や問題の厳しさへの認識を取り戻したことにも注目したい。こうしたことが、国家レベルではこの法律(=改正憲法)への支持を複雑なものにしている。
ある意味、これらの出来事はこの法律の終焉を告げるものです。
フランス共和国大統領はヌメアで、この問題を強行するつもりはないと述べたことで、明確ではないにせよ、ある意味で、この法律の弔いの、つまりその緩慢な放棄の鐘を鳴らしたのです。この出来事がフランス本国、フランス海外県・海外地域や太平洋地域、そして世界中で受けた反響を鑑みると、フランス共和国大統領がいまだこの憲法法案を提出したがっているとは私には考えにくい。それだからこそ私は、CCATの責任者たち、その地方支部、そしてこの邦の若者たちに対し、封鎖と遮断を解除し、あらゆる暴力行為を止めるよう求めているのです。 たとえ彼らの力の動員によって、現行の社会が直面している問題の厳しさと、その解決が求める社会の関心が高まったとしてもです。ニューカレドニアの慣習上院と私自身が話し合ってきた8つの慣習評議会の議長たちにも、私は同じことを訴えました。

しかし、それだけでは十分ではない。私たちは、わが邦の制度的な将来について全体的な合意に達するために、再建に向けた作業に取り掛かり、議論を始める必要がある。 これを達成するためには、新たに信頼を見出し、国内を安定させ、そして将来について対話できる環境を再び再構築させねばならない。そのためには
- フランス共和国大統領が、私たちに多大な損害をもたらしたこの法案の計画の撤回を支持し、それに代わり、マティニョン‐ウーディノ協定、そしてヌーメア協定時に実現されたような、わが邦の将来に関する合意に関連する憲法に置き換える意向をよりはっきりと明言することが重要である。
- どのような立場であれ司法は、暴力と法の違反の加害者は公正かつ透明性をもって処遇し、特に横行する武装集団の活動を逮捕し、終止符を打つよう努めなければならない。
‐ 治安部隊は、その介入において、より分別を発揮しなければならない。
‐ 政治責任者たちは、将来について掘り下げた断固たる議論を行い、短期的な選挙目当ての策略から脱却しなければならない。

今回の危機によって生じた必要事と要求の負担については、危機が始まって以来、ニューカレドニア政府は、国、地方自治体、社会的パートナーとともに、協力しあって取り組んできました。
本島最北部までとロイヤリティ諸島部における食糧、医療、燃料などの必要物資の供給に可能な限り応えるために、すでに緊急行動と対策がとられています。しかし、これだけでは全く十分とはいえない。交通手段も情報伝達も住民のケアという面では依然として困難なままであり、学校の新学期を適切にスタートさせるための条件を整える必要があります。

だから私はここで繰り返し要求します。通行・交通の遮断や障害物は撤去しなさい。

さらに、危機の影響に関する初期評価により、現在、生活上の必要と要求の度合と種類の特定ができるようになっています。既にお聞きと思いますが、フランス政府からの緊急代表団、同様に財政的援助についての経済省からの代表団との話し合いが行われています。私たちは、フランス政府が6月5日付の声明、必要な半分に限って資金援助に参加するという発表を受け入れました。これはもちろん ニューカレドニアの財政状況を考慮すれば、全く不十分と言わざるを得ません。

私は、この邦を危機から脱却させ、経済を再出発させ、未来を見通すための解決策を見出すという、私たちの全面的な献身と決意を各企業と従業員の方々に、皆様の側に立つことで、保証したいと思います。そして、各会社幹部が捧げたすべての、特に、特にSLNに対しての操業再開への努力とプロニー・リソーシズの段階的な操業立て直しの努力に感謝しています。
私はフランス共和国大統領に手紙を書き、復興計画のより正確で精密な策定を待つ間、3ヶ月間の必須・必要な資金確保の為の国家支援を要請しました。これらの資金的要求は、7,000人を超える人々の部分失業、つまり時短労働や、税の損失、企業活動の維持支援措置に関するものです。

私たちは、ニューカレドニアが利用できるさまざまな選択肢を探っています。特に、ニューカレドニアに駐在する友好国の外交官に集まってもらい、状況を説明しました。私は、オーストラリア、ニュージーランド、バヌアツ、日本、インドネシア、太平洋共同体(SPC)、欧州連合に復興支援を求めました。また、ニューカレドニアとの連帯のために、ウォリス・フツナ準州が2,000万CFPフランの異例で特別な寄付をしてくれたことに感謝します。
この危機は、ニューカレドニアの肉体と魂に触れています。この邦の傷を癒し、(ひとつの)運命を共にする共同体を構築し続けるために、ニューカレドニア政府はひたすら平和を回復し、自らに立ち返り、過去を乗り越えるために、その全力を尽くしています。平穏を取り戻すため、慣習や宗教の責任者、そしてこのような出来事に前向きな影響を与えることができるすべての人々に呼びかけます。ニューカレドニア政府として、ニューカレドニアの全自治体が危機管理のために連帯して行動して頂きたい。私はまた、政治の責任者たちに、この危機の教訓を学び、そして子どもたちのための希望に満ちた新たな歴史の1ページを、対話と議論を通じて刻むことができるようにニューカレドニアを導くようにお願いしたい。フランス国家とともに、私たちは、フランスとニューカレドニア、フランスとカナク、そして、フランス、カナク、その他の民族共同体との間にある、全体の歴史的な結びつきを、それが不快なものであっても処理する義務を負わねばならないのです。私たちは、ニューカレドニアを植民地支配体制の束縛、未だにニューカレドニアとフランス本国で今回の”出来事”が語られ、経験されたような束縛から解き放つ新たな絆を再構築する必要がある。

最後に、私はフランス共和国大統領に対し、この憲法(改正)作業の継続を完全に再考するようあえて強く申し上げたい。調停団が開始した活動を十分に意味のあるものにするには、新たな信頼の風土の中で発展・成長させなければならない。それこそが、ューカレドニアがその傷を癒し、過去30年間の平和維持を司ってきた精神が、本来のあるべき姿を取り戻すことで、ニューカレドニア自らを再建することができるのです。
そうして、昨日、今日と命を落としたすべての人々に敬意を表し、ジャン=マリー・チバウが大切にしていた知性の投企と、ジャック・ラフルールとの握手を称えたいと思います。
ありがとうございました。

注16: ”暴動”勃発直後の5月13日から、独立派と反独立派の武力衝突は報告されていて、5月14日から15日に殺されたカナク3人の死亡については、全くの個人によるのか、あるいは反独立派によって組織された独立派に対抗する武装グループによるものかは、依然としてはっきりしていないが、警察や憲兵隊でない者によって引き起こされたという。非カナクの住民の中には略奪や放火に対する極度な不安と警戒心、ニューカレドニア政府の治安維持能力への不信感もあり、当局の制止にもかかわらず、武装した自警団を結成して活動する動きは止むことはない。一方で、カナク独立派の方では、警察やフランス本国から派遣された憲兵隊は、こうした武装自警団を見て見ぬふりどころか、一緒にデモ行動への攻撃をしていると批判している。結果としては、お互いの不信と暴力の連鎖が今に至るまで、延々と止まっておらず、一時の小康を得ても、いつまた再発するかわからないというのが現状だ。カナクと非カナクの間の人種的憎悪の感情は間違いなく悪化しており、カナク人の警官が住民(おそらくはヨーロッパ系)に殴打されるといった事例も報告されているし、カナクの側の学校等の公共施設、日常生活に不可欠な食料品店の破壊はそれに火に油を注いでいる。

こうした状況に陥る重大な背景の一つは、ニューカレドニアが実は大変な銃器武装社会であることにある。ニューカレドニアではヨーロッパ系の古くからの移民は開拓農民、農場主でカウボーイ的伝統があり、カナクの側も狩猟のために銃の保有は広く行われていた。そして2010年に銃所有のための条件が緩められ、身分証明書、健康診断書、そして狩猟免許証あれば、銃器は一人でいくらでも所有できるようになった。そのため、現在ではニューカレドニア全体で64,000丁のスポーツ用、狩猟用の銃が流通しており、不法なものを含めると100,000丁を超えると言われる。子供や女性を含めた総人口の1/3以上が銃保有をしているということだ。そして、2010年に銃保有が緩められた結果、銃器の購入が大きく伸びた理由として広く信じられているのは、その当時で実施まで10年を切った独立を巡る住民投票後に、たとえその結果がどうなろうと予想される暴力的な混乱に備えるためだったということだ。

注17:宗教勢力、慣習勢力というのは、明らかにカナクを念頭に置いてのものだ。ニューカレドニアを知らない多くの人々は意外に思われるだろうが、カナクの多くは伝統的に非常に熱心なカトリックあるいはプロテスタントのキリスト教徒でキリスト教信仰は、カナクの精神生活の不可欠な一部だと言ってよい。毎日曜日に教会に集い、牧師や神父の説教を聴きながら、コミュニティの仲間で賛美歌を歌い、集会を楽しむのはカナクの伝統的で、特にロイヤリティ諸島ではこうした教会でのオリジナルの讃美歌がさかんだ。(動画はマレ島のコミュニティのもの。似たような集まりは本当でも数多くみられるという、それにしてもすごい迫力)

こうした背景もあり、カナクの政治リーダー、有力者にはキリスト教聖職者やその訓練を受けたものがとても多くい。
また、ここで”慣習”勢力と呼ばれている、日本人には聞きなれない言葉だが、わかりやすく言えばカナクの共同体の伝統的リーダーたち、それぞれの部落の首長、そしてそのさらに上に位置し、いくつかの部落全体のリーダーである大首長たちのことだ。
宗教的指導者も慣習指導者も、どちらもカナクの間では高い威信をもっていると考えられてきたが、今回の”暴動”についてはどちらの暴力抑止、冷静の訴えはほとんど効果を持てていない。
その原因として考えられるのは、今回の”暴動”となった運動は明らかにヌーメア、及びその近郊に住む若いカナクたちが中心となっているが、彼らは既に離島やヌーメアから離れたカナクの故郷としてのカナクの農村共同体(=Tribuという)から地理的にも精神的には距離が離れてしまい、従来の権威が彼らには効かなくなっているのではないか?ということだ。
また近年はこうした、特に慣習勢力のリーダーたちの堕落がしばしば伝えられている。私が去年、ニューカレドニアを訪問した時は、ある離島に超豪華ホテルが建設中だったが、その建設にあたってはこの島の慣習リーダーに多額の賄賂が支払われたとヌーメアではまことしやかに語られていたが、こうした私利利欲に走ることが常態化しているとすれば慣習リーダーたちの威信に陰りが出ても不思議ない。
もっとも傍からは絶対的で権力的と思われることの多い(ニューカレドニアの非カナックもそう思い込んでいるケースが多い)カナクの慣習リーダーだが、実際は権威をかさに上から強力なリーダーシップを発揮するのでなく、むしろ合意やコンセンサス重視、共同体内の仲裁が主な役割なのがカナクの伝統で、共同体内の意見がまとまっていない状況では強いリーダーシップは望みにくい。”暴動”を受けて、こうした慣習リーダーたちの会議が何度か行われているが、毎度結論らしいものがでず、明確な方向性が打ち出せないままになってるが、実はカナクの内部では、今回の”暴動”に対して擁護とまではいかないにせよ、同情的な雰囲気が強く、慣習リーダーたちも踏み込んだ意見を言い出しかねているのが現状かもしれない。

注18:今回の”暴動”、発端はニューカレドニアの”地方”選挙権の”改正”がフランス本国の国会(=国民会議という)で審議が進み、可決されて決定される寸前にあったことに対する、カナク独立派の抗議活動だ。実はニューカレドニアは、フランスに帰属しながら、非常に独立国に準ずる自治も認められる特別領という地域のため、ニューカレドニアのフランス国籍の人(カナクもその中の一部である)には三つの市民権が存在する。フランス市民権、EU市民権、そしてニューカレドニアの市民権だ。問題になるのはニューカレドニア市民権で、ここにはフランス国籍でありながら、ニューカレドニア市民権を持たない人が2024年には42,000人ほどに達していたと言われる。総人口が290,000人ほどなので、これは大変な割合といってよい。そして、もちろん彼らはニューカレドニア”地方”選挙や住民投票に参加できない。どうして、こうしたことになったかというと、ニューカレドニアの市民権は1998年以前の市民権有資格者とその子孫たちに限ると決められているからだ。それを改正し、10年以上、連続的にニューカレドニアに居住している条件で彼らにニューカレドニア市民権を与えようというのが、今回の”改正”であった。

これに猛反発したのが、カナクの独立派であり、マプ大統領の声明のこの部分は、カナク独立派にとっての”地方”選挙法改正に対する一般的な意見と考えられる。選挙法の前提であるニューカレドニア市民権は誰に認められるか?という問題は、フランス領であることが当たり前の前提とされていた時代、つまり1980年代初頭までは全く問題でさえなかった。フランス市民権=ニューカレドニア市民権だからだ。だが、それ以降、カナク民族主義が盛り上がり、ニューカレドニアの独立が要求され、それをフランス本国政府も無視できなくなると、それは重大な政治的焦点のひとつとなった。続々と流入してくるフランス本国や海外領土からの移民は、フランス領であるニューカレドニアに職や生きる場を求めてきたのだから、当然、反独立派。それでなくとも人口では既に少数派になっていたカナクにとって、彼らに市民権を与え続けることは、住民投票では独立賛成が永遠に多数になれないことを運命づけることになるからだ。独立運動が多数の死者まで出す、ほぼ内戦状態にまで沸騰した時期を経て、やっと独立派とフランス政府・反独立派との事実上の和平協定といえるマティニョン合意(これが1988年)、続くヌーメア合意(1998年、これらについては後程、詳しく説明)でも、この問題は合意には至っておらず、実は独立を巡る住民投票の投票権を1998年時点(=ヌーメア合意時)で市民権保持者とその子孫に限るという決定がされたのはやっと2007年だった。当然、2023年から”地方”選挙権の”改正”に向けての動きがフランス本国で始まると、当初からカナク独立派は強い反発を一貫して続けていた。

注19:ここで”(暴力的)事態”と訳したのはフランス語で”événements”、本来は出来事、事態という意味の単語だが、ニューカレドニアでは1984‐88年に起きた独立派と反独立派、そしてフランス政府との間の激しい武力衝突を指すときに使われる言葉だ。それは血なまぐさい武力衝突の記憶を少しでも和らげるために遠回しに指し示すものだったはずだが、マプ大統領はこの言葉をここで敢えて使っている。今回の事件はそれほど忌まわしく深刻なものだ、ということを伝えたいのだと思う。

注20: 独立派にとっては20年をかけ、その間には血にまみれの戦いを経てまでやっと合意に達したニューカレドニア市民権の確定も、反独立派とフランス政府にとっては妥協による一時的合意という理解でしかなかった。どのような形であれ、独立に関する住民投票が規定通り三度行われ、その結果が独立の否定となり、フランスへの帰属が確定した以上、一時的な確定による市民権も見直されるのが当然であり、フランスの一地方である以上、その問題は本国の国民議会で決定されてることにも疑問はない、というのがフランス政府及び反独立派の立場だ。東京都知事選挙の法律は東京都で独自には決められず、日本の国会制定の法律で決められる。それと同じという理屈。もっとも、反独立派もこうした木で鼻を括る論理だけで言っているわけではなく、そこにはニューカレドニアがあまりにもフランスに依存した体制になってしまい、ただフランスに帰属するのみならず、本国や移民の人材なしでは、医療や教育、行政も立ちいかないという認識が根底にある。
それでも、どんなに彼らの論理の側に立ってみても、フランス政府と反独立派、特にフランス大統領のマクロン氏は独立派カナクのここまでの激しい反発をあまりに過小評価していたという政治判断のミスの責任は免れない。おそらくカナクがコロナ・パンデミックの非常事態を理由に強硬に延期を要求していた第三回住民投票を強行しても、大きな暴力的混乱がなかったことに自信を持ったゆえでのものだろうが、それはカナクの思いをあまりに逆撫でする政治行為だった。

注21: ルモワール法は1984年に海外領担当大臣ジョルジュ・ルモワールが発表したものでニューカレドニアの自治権拡大と住民投票を提案、ポンス法では保守派のシラク政権時の海外領担当大臣、ベルナール・ポンスが主導して、1986年に発表したもので、一年後の独立に関する住民投票、開発のための援助等を約束したが、同時にカナク独立運動を力づくで抑止するために軍隊をニューカレドニア全土に展開させた。どちらの場合も住民投票の投票資格は、ニューカレドニア在住フランス人のすべてに付与されることが前提で、その制限をカナク側と話し合う時間的余裕もなかった。つまりカナクに住民投票に全く勝ち目はないことは最初から明白で、独立運動側はこれを拒否、結局、”événements”(エヴェヌマン、事件、出来事)と呼ばれる武力衝突が激化することになった。なお、ポンス法による住民投票は結局、カナクのボイコットにもかかわらず1987年強行され、投票率58%で独立反対が98%の結果となった。この住民投票の際、独立派のFLNKSはあくまで非暴力による抵抗を貫いたが、それは何ら実を結ばず、結果的にはその後は対立が激化、武力衝突が頻発することになり、なんらの平和も安定ももたらさなかった。35年を経てもなんら歴史から得ることがきていない、とはこの時のことを指している。

注22:7月1日のル・モンド紙によれば逮捕者数は1,520人となっている。

注23:6月24日時点では、ヌーメアにある42ある保育園を含む教育施設のうち再開にこぎつけたのは21校の半分のみ。ニューカレドニアは車社会でもあるので、道路がバリケードで封鎖されたりすると子供や教師たちが学校に行けない。再開した学校の中には、子供の送迎は、通常の送迎バスを出すこともできず、親の自己責任と負担というところも多く、実質、子供を通わせられない家庭も多いはずだ。またヌーメア及びその近郊では多くの学校が略奪や放火の被害にあっており、高校や大学の教師の中には、教え子がそういった行動に走っているのを直接に目にしてしまい、ショックで仕事の継続に困難を覚える人も多いとのこと。
なお、今回、直接の暴力的な被害は比較的軽微だった地方や離島の学校についても6月中には全校再開との予定だったが、実際にはどの程度が実行されたかの情報は私は持っていない。

注1‐15までを載せた記事はこちらを→


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