宇佐美寛・池田久美子『対話の害』【基礎教養部】[20230926] Hirotoのnote

※私が所属している「ジェイラボ」というコミュニティ内での活動noteです。

今月の課題本のタイトルは『対話の害』。Takuma Kogawaさんが書評を書いているので詳細はそちらを参照のこと。

読んだことによって頭に湧いた「タネ」から、いくつか文章を記す。

dilemmaの解決ではなく、dilemmaの無化

『対話の害』を読み終えて、ちょうどYoutubeにこんな動画が流れてきた。

一部引用する。

僕はよくお風呂場に行って温泉とかで目をつぶってボケーっとして、呼吸に集中したりね、そうするとホワンホワンってした悩みがいろんなのがあるんだよ。風船みたいにして。

それを、パチンパチンパチンってやるんじゃなくて、そこに置いておく

(中略)

(悩みを)放置して、あなたはパスタ食べに行けばいい。

つまり、悩みと向き合って解決するのではなく、放置して距離とっておけ。そうムネリンは言っている。ムネリンは「悩みは向き合っても消えない」と言っているが、これは勝手に言葉を補うなら「悩みは向き合ってもすぐには消えない」ということであろう。
悩みとは向き合って解消するものではなく、大半は時間によって知らず知らずのうちに無化(忘却)されるものだ。

この「悩みの無化」という境地に、聡い人間は往々にして辿り着くものらしい。ブッダ、ヘーゲル、ウィトゲンシュタインなどなど。「無化」の意味合いは色々変わってくるのだが、いずれにしても「解決するものではない」という姿勢は一貫している。

ブッダは、というか仏教的な教えは、「今ここ」を意識することで、悩みを解決するのではなく自分の中から消し去ろうという姿勢をとっている。

ヘーゲルは、というか「弁証法」は、対立する二つの事柄に対し、戦わせてそのどちらかを採用するということではなく、より高次元の三つ目の事柄を登場させて対立を消し去ろうという姿勢をとっている。

ウィトゲンシュタインは、ずっと哲学で議論されてきた問題が「擬似問題」にすぎないことを示し、哲学的問題の答えを求めずに問題そのものを消し去ろうという姿勢をとっている。

『対話の害』では、トロッコ問題をめぐるサンデル氏の講義姿勢への批判が繰り返される。サンデル氏はトロッコ問題という無理矢理な二択を学生に迫り、その枠組みそのものを疑うような動きを排除していると池田は語る。その排除システムこそが即時性を伴う「対話」形式なのだと。このサンデル氏の講義は「悩み(dilemma)の解決(=解答の選択)」を学生に試みさせている。

これに対し、池田が講義でトロッコ問題(をめぐるサンデル氏の講義)を取り扱う際は、そもそもの問題の条件や枠組みを疑うように仕向けている。これは「悩み(dilemma)の無化」と言えるだろう。

ここまでの流れを汲むなら、池田の方が「聡い」ということになるのだろう。

人間のどうしようもない「有限性」を考える

池田はトロッコ問題の前提条件を疑うように仕向ける。そもそもなぜそんな状況に陥ってしまったのか。「運転手の二択のどちらが正義か?」という問いの外の不正義があるのでは?
このように外堀の情報を考えていき、バーチャルな状況設定からよりリアルな状況設定へと思考を促す(ような講義形式にサンデル氏がする)ことを是としている。

ここで混同してはいけないのは、状況設定をより具体的に考えるのは結構だが、「選択肢を増やす」方向に行ってはまずいということである。それでは問題とまだ向き合ってしまっている。大事なのは、より高次元の問いを考えて選択肢を無意味にすることである。先に述べたような弁証法的思考に近い。

そうすれば元々のトロッコ問題より多少はマシな議論になるし、よりリアルにも近づく。それは私も同感である。

しかし、『対話の害』の主張を受け入れることと「サンデルが間違っていて池田が正しい」と大雑把に考えるのは、相容れない。『対話の害』でのトロッコ問題への取り組み方を参考にするなら、「サンデルよりも池田の方が多少マシかも。この差は相対的なもので、絶対的な善悪ではない」と言わなければならないだろう。

そもそも、人間は有限性を背負っている。言い換えれば肉体の死を背負っているということである。原理的に我々は絶対的な答え(≒神≒イデア≒無限)にたどりつくことはできない。できるのは、高次元の問いを立て続けることだけである。

有限性については数学的により詳細に踏み込んだnoteを書いているのでそちらを参照のこと。

トロッコ問題の運転手の背後に隠れる正義不正義を考えたところで、それに対する対立はまた現れうる。この営みは原理上無限に続く。人間は有限性を背負っているのでどこかで打ち止めにしなければいけない。状況設定をリアルに近づけ続けることはできても、状況設定を考え切ることはできないのである。

極端に言えば、こんな問題、隕石落ちてきたら終いである。こんなエクストリームな状況を排除しているのは紛れもなく「常識」「慣習」でしかなく、それは我々がこれまで体験してきた人生という一種の「訓練」による。論理では語れないどうしようもない身体性が、言語で語られていない部分の状況設定を勝手に決めているのである。

そうである以上、全ては程度問題であり、根本的な無化もありえない。解決はもってのほかだということは最初から述べているが、(弁証法的な)無化でさえ程度問題なのである。

そもそもトロッコ問題ってメインじゃないんじゃ??

真面目にここまで語ってきたが、本書で取り上げられているサンデル氏の講義内容がトロッコ問題についての部分に終始しているのが少し気になる。重箱の端っこを突いているような気分になる。

著者が問題にしたいのはトロッコ問題そのものではなく、その取り上げ方(対話形式)だというのはもちろんわかっている。わかっているが、それにしても、一番メディア受けする(そして雑な)トロッコ問題の部分だけを切り取るのはフェアさが足りないんじゃない、、?とは思う。ここまでの議論を汲み、「フェアでない」とは言い切らない。

サンデル氏にとってトロッコ問題は「功利主義」と「規範倫理学」の対立を示すための「キッカケ」にすぎず、トロッコ問題を考えさせることが講義全体のメインではない。サンデル氏としても「つかみが雑だったのはほんますんません。でも中身見てくださいや」という感じになるのではなかろうか。

とまあ、最後にサンデル氏を少し擁護してしまいたくなるくらいには、ボロクソに書かれている。

教育に携わっていない人でも、本書は自分の考えの、それこそ「キッカケ」くらいにはなるのではないだろうか。

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