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2024.4 『ともぐい』に脱帽する

「ええか。狙いつけたら肋骨を広げてでかい息をすれ。静かにだ。一、二、三。三度だ。急ぐときは仕方ねえから一度でいい。必ず息吸え。頭がすっきりして、照準が定まる。忘れんな。息だ」
 山の猟師である熊爪が村田銃を構えて雄鹿に狙いを定める。息を吸って吐いて、そのたびに、目の前の獣のこと以外は考えられなくなっていく。今年1月に直木賞を受賞した河﨑秋子さんの『ともぐい』はこのセリフが冒頭にある。思わず深く息を吸い、吐き出すのを忘れて読み進めていくと、熊爪が以前に遭遇した鹿の解体を回想する。
「膨らんだ胃の表面に小刀を当てた。瞬間、腐った酢のような臭いがたちこめた」

 さらに仕留めたばかりの鹿の腹を裂き始める場面に切り替わる。
「朝の張りつめた空気に温かく緩んだ蒸気が立つ。それがむわりと鼻の奥に粘りつく。少しだけ、人の股座の臭いに似ていると思う。命の匂いだ」
 動物の体が発する臭い、臓器の温もり。刃物を当てる感触やほとばしる鮮血が目に見えるようだ。五感が受け取った刺激の一つ一つが説得力のある表現で描写されていく。臭いも温かさもこういうものだろうと実感を持って想像する。これだけのリアルを頭の中だけで書けるものじゃない。
 そのベースには実家が酪農を家業としており、本人も4年前まで羊飼いをしていた経験がある。長兄がハンターをしていて、駆除した鹿の解体を任されていたというから描写には嘘がない。
 
 赤毛の熊との格闘シーンはこの小説のハイライトだが、どうしても触れておきたい戦慄したシーンがほかにもある。
「熊爪は男の頭をがっしり両手で掴むと、潰れた右目の辺りにむしゃぶりついた。間髪入れず、腫れた瞼の間から中身を吸い上げる」
 熊爪がなにをしているのかと戸惑っていると、目の治療だとわかり、それがあまりにも原始的な方法で度肝を抜かれる。
 
 熊爪は山の中で猟をして、犬と暮らし、なにものにも縛られない自由人であったが、熊との闘いで大きな負傷をしてから迷路に入り込む。山を下りて炭鉱で働くのか、煩わしく感じていた人との温もりを求めるのか、あるいは。
 
 読後に思い出したのは高村薫さんだ。なんの予備知識もなくデビュー作の『黄金を抱いて翔べ』を読んだとき、途中で何度も女性作家の手によるものなのかと確認した覚えがある。6人の男たちが銀行強盗をする話で、男たちの殺伐とした会話や暮らしぶり、犯行の緊迫感が秀逸だった。
 河﨑さんと高村さんに共通するのは二人が描く男たちには現実的で確かな立体感があるということだ。その目線には容赦がない。退廃的で荒々しく、だらしなくて格好悪い。妙な虚飾がない。こんな男は世の中にごまんといる。
 男性が同性を書こうとすれば、ついどこかで美化してしまい、少しでも正当化して見栄を張るだろう。
 
 直木賞を受賞してスポーツ報知のインタビューでは「北海道の山の中に引きずり込まれるような感覚を味わっていただければ」と答えている。その思いは確実に読者に届いている。
 大学を出て、ニュージーランドに1年間の留学をしたあと、実家で働きながら羊飼いを本業としていく。二十代の終わりにふとしたきっかけで小説を書こうと奮い立ち、そのタイミングで父が倒れて介護が必要となる。羊飼いと小説の執筆と介護。並の人間なら心が折れるような状況だが、逆境で失うものはないと考え、「なに一つ諦めてやるものか」と思ったそうだ。睡眠を毎日削り、書き続けて結果を出した。脱帽以外に言葉がない。今後の期待が膨らむ。

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