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「分からなさ」を言語化する:深草氏@fukaxaへの応答②

 前回のnote記事で障害者施設反対問題(施設コンフリクト)を扱った。その後、記事を読んでくれたかは分からないが、深草氏から次のような反応があった。

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 深草氏は(ボルボラには)『「悪いと思います」とか書く個人に対する侮蔑』があると言い、『"教育機関”の評価軸も端的にバカげていると考えているのではないか』と疑う。その疑念に基づき「反ボルボラ派」に加入するのだと言う。

 ここで重要なのは、あくまでも「疑念」に過ぎないことは、深草氏も十分に自覚している点である。つまり、深草氏は「ボルボラは「悪いと思います」と書く個人や、学校教育の評価軸を侮蔑している」とはっきり書けるだけの根拠や理屈を持ち合わせていない。他ならぬ本人がそう認識していることは、「~ではないか」という文末表現にも現れている。しかしながら、はっきりと述べられる根拠や理屈なしに「反ボルボラになる」と敵対的に宣言する行為は、「侮蔑」とまでは言わないにしても、「失礼」あたりにはならないのだろうか。

 深草氏は上記ツイートに続けて、更に私見を述べている。

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 どうやら『中世の非人道的な価値観と現代の自由民主的な価値観を並列する』ことを、私は『前置き無し』にやり、そのことによって、深草氏を苛立たせたようである。しかし、「中世の非人道的な価値観と現代の自由民主的な価値観を前置きなしに並列すること」によって生じる不都合、デメリットが結局のところ「深草氏を苛立たせてしまうこと」以外に挙げられていない。そうであれば、私の答えは「それは知らない」以外にない。なぜ、「前置きなしにそうした価値観を並列すると、~という問題が生じる。したがって避けるべきだった」と書けないのか。

 更に次のツイートでは、『自由な知的分析と反差別のような思想とは摩擦する』と唐突に書かれている。「摩擦」とは具体的にどのような状況を指しているのか。たとえば、差別問題に関する知的分析の結果を記事や論文として公開した人に対し、反差別思想家が「自由な知的分析を行うべきではない」と議論を仕掛けているような状況だろうか。まずこれが意味不明である。そして『この摩擦を知的分析の側から押し切っていいのは条件付き』であるという主張にも根拠がない。どのような条件が、なぜ付けられるべきなのか、全く書かれていない。

 加えて奇妙なことに、『具体的にどこまで条件付きで線引きがどこかという話がしたいわけではない』と続く。自然に読めば、深草氏は「自由な知的分析を行うには条件をつけなければならない」と主張する立場である。しかし、条件の具体的内容や、その条件が発動する要件に関しては説明するつもりはないと言う。これもまた意味不明である。たしかに深草氏としては「……という話がしたいわけではない」のかもしれない。しかし、私としては、内容の分からない条件を守るのは端的に不可能である上、その条件がはたして妥当かも検討を要する。普通に説明してもらいたい。

 深草氏はさらに『我々の価値観の限界を露呈させるような話だと分かってんの?と言いたい』と書く。「価値観の限界を露呈させる」の文がやはり意味不明である。まず、何の価値観か。「現代の自由民主的な価値観」か。そうだとしても、その「限界」とは何か。ある価値観のなかで、比較的余裕をもって扱える問題と、そうではない問題(限界に近い問題)があり、本件は後者に該当するという意味だろうか。該当するかどうかは、どのように判断したのか。また、「価値観の限界」を「露呈させる」と何が不都合なのだろうか。「露呈させること」は避けるべきなのか。避けるべきだとしたら、その根拠は何なのか。「分かってんの?」と言われたら、私は「分かっていない」と答えるだろう。しかし、ここまであらゆる文の具体的内容の説明がなく、根拠も書いていないなら、「分かれ」と要求するほうが無茶ではないか。

 さらに深草氏は『動機が邪推で藁人形だと認めてよい』そうである。再び深草氏は「ボルボラは「悪いと思います」と書く個人や、学校教育の評価軸を侮蔑している」とはっきり書けるだけの根拠や理屈を持ち合わせていないことを自白したのである。そのような中で、『理屈の部分はご理解頂けないかな』と言われても、私は深草氏の話に「理屈」などという高級なものないと答える他ない。とにかくすべての主張に根拠がないし、主張の内容そのものも不明である。こんなものは「理屈」ではない。

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