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夢うつつ白羊宮 「玄想映画室 白羊宮」主人繁田俊幸追懐 前篇


  そこにあるべき影は無かった。銀幕に映し出されたのは、只の光の塊に過ぎなかった。既にフィルムは終わり、映写機が発する虚しい光の帯は何も照らし出してはいない。空っぽの巻【リール】の乾いた回転音と、鞭のように撓ったフィルムの先端が機材を叩く規則的な音の繰り返しが響くばかり。次の巻が始まる様子も無い。映写技師はいないのか。一体、どこへ行ったのだろう。
 映写機の傍らにいた誰かが手探りで電源を切り、また誰かは部屋の明かりを燈す。突然の中断に当惑した客席にも次第に安堵が広がり、一人二人と喋り出すと、先程の機械音に代わって談笑がさんざめく。ざわめきの中をおっとり刀で帰って来た映写係、そう、この場の主宰は苦笑をもって、それでも 暖かく迎えられる。手には中古盤屋の袋を携えているから、一巻が終わるまでのおよそ二十分の寸暇を割き、近所の店で好きなカンツォーネでも漁って来たようだ。二言三言、詫び台詞めいた遣り取りがあっただけで、何事も無かったかのように、彼は悠然と次の巻を映し始める。
 こんな光景は、「玄想映画室 白羊宮」には珍しくなかった。映画の鬼とやらが最前列を埋めると聞いた京橋や、隼町の三階席より高い見物料を取る一般封切館なら悶着は必至だろう。白羊宮とて些少ながらも有料、わざわざ遠くから一日を潰して観に訪れた客人も少なくないにも拘らずだ。一つには映写機が一台限りゆえ、巻の交換には多少の時間を要するのが恒だったから、巻と巻との間に空白の時間が生じることに 常連が慣れていることもあったろう。それにしても、かかる失態を黙認はおろか、終演後には軽い感謝の言葉と次回の参会を約して満足げに帰 る観客ばかりだったのは、端からは訝しく見えたかもしれない。
 これも一重に彼、「玄想映画室 白羊宮」主人繁田俊幸の温厚篤実な人柄の所以だった。彼が好んで銀幕に映写するのは、おどろおどろしい怪物や艶めく女怪、拳銃や殴り合いが付物の犯罪映画だったが、本人は非の打ち所の無い紳士だった。同好の士の誰もが慕い、多くの後輩が進んで兄事した主人を、悪く言う人物には未だお目に掛かった験しが無い。微笑みを終始絶やさない彼の容貌は、どことなくジーン・ケリィを彷彿とし、ハンフリー・ボガートのような寡黙な優しさを湛えていた。内面にはクロード・レインズの慎み深さが秘められており、気高く潔 いピーター・カッシングに通じる側面すら併せ持っていた。
 朴訥とも言うべき内向きな性格から、人付合いはぎこちなかったかもしれないし、何より白羊宮の上映作品は大きく偏っていた。それとは 裏腹に、来客は多士済々だった。例えば、児玉数夫。主人も敬愛を惜しまなかったこの評論家は練馬で催された上映会に、近所の気軽さから自転車に跨って駆け付けたと聞いている。また、斯界の編著書もある北島明弘が、手控を書き込みながら銀幕に見入る姿に襟を正したこともあった。 他にも名を知られた文筆家や書籍編集者の顔も時折見えたし、その案内状発送名簿にあった意外な名前は、主人の交際の幅を示す何よりの証だったろう。「ぴあ」の自主上映欄にも忘れずに通知を送っていたから、自然と人の知る所となり、それぞれ同人誌や上映会に手を染め始めた村田英樹、山田真裕、元山掌等、斯界名うての蒐集家や愛好家は白羊宮の初期から参会している。
 昨今、飲食禁止の公共施設は珍しくないものの、白羊宮ではお構い無し。簡単な茶菓ならまず忘れずに供されていたし、美酒を嗜む主人の 計らいで葡萄酒の瓶が卓上に並んだことまであった。加えて、若干の私語なら許されるおおらかさが白羊宮にはあった。言葉を発するはもとより、 椅子の軋みさえ我慢できない神経過敏な輩は却って居心地が悪かっただろう。一通りの作品を見飽きた常連が怪作珍作の類に容赦無い哄笑を浴びせても、主人はどこ吹く風。静かに笑みを浮かべながら、映写機の後ろに黙って控えているばかりだった。何しろ、この映写係は率先して杯を傾け、 終演時にはすっかり出来上がっていたことも少なくなかったのだから。
 かくも自由が横溢する、ゆったりした雰囲気の上映会だったから、身近な気安さからすっぽかす放縦を働いても大目に見て貰えた。主人本人が、嫌いな作品、興味が無い映画は観るには価しないと考えていたし、事実、頃日の銀幕にはすっかり顔を背けていた。言葉を換えると、この現実への疑義、現在への反撥が白羊宮を二十年の長きに渡って続けて来た主要動機だったのかもしれない。映画との所縁を保ちたいとは願いつつ、一方で 審美眼や好尚とはそぐわない現今の作品には違和感を感じる、そんな愛好家が少なくなかった。生きている現実とは別の時間に夢の思いを馳せる映画通が安らぐ、恰好の活動小屋が白羊宮だったのだろう。

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  白羊宮は大抵は二本立、看板に見立てた片方を二回上映する番組編成で、昼過ぎから宵の内にかけての開館だった。市谷を除けば、練馬、渋谷、六本木と所を変えても、いずれも公共施設の狭い会議室で催され、三十人も入れば満員御礼という細やかさ。午後七時を過ぎてから始まる最終回なぞは、見慣れた顔ばかり数人という寂しい入りが何度となく繰り返された。定員に達する心配は、まず無かったようでもある。それでも主人は営々孜々とフィルムを映し続け、正確には不明ながらその回数、十九年間に七十回は下らないだろう。この実績は、伊達でも粋狂だけでも到底達成できない、一つの記録と言えよう。何より、ヴィデオテープでも古臭く、DVDなる小円盤に頼らざるを得ない時代に移っても尚、ひたすら十六粍【ミリ】プリントに執着する一徹ぶり、この奇特にして頑なな姿勢は見事でさえあった。
 白羊宮が丁度十年を過ぎた平成五年に、主人は「失われた鬼趣を求めて」と題した上映作品一覧を配布している。前年の時点で既に三十九回を数え、作品数は五十九本。一切重複無しの正味の本数であり、嘗て大蔵映画が配給した怪奇映画を回顧する、劈頭六回八本以外は全てが主人家蔵の十六粍フィルムだった。これだけでもざっと二百巻もの量に及び、この後十年に上映した作品を併せると総重量は一屯【トン】を越えたのではあるまいか。流石に一所に纏めての保管は諦め、実家その他何箇所かに分散していたらしい。これらは米国の中古販売情報紙の頁を繰り、折に触れ一本一本、主人が手ずから取り寄せた蒐集品だった。大概は各作が全巻揃っても一万円で済んだと聞いているが、ほぼ同額かそれ以上の送料は免れず、時に税関で足止めを食う災厄にも遭ったらしい。成田に呼び出されるだけならまだしも、確か『空の大怪獣ラドン』の米国版を個人輸入した際には、何がしかの税金だかを課せられた筈である。
 白羊宮のあらましは別掲付表に譲り、一つ、独特の命名にだけ触れておこう。『魔女屋敷の蛇淫』『毒蜜と悪女』『裸女と殺人サーカス』といった時代がかった大袈裟な毒々しさも、白羊宮初期を飾った「隠花植物」、大蔵映画や新東宝末期の諸作に倣ったパステーシュであるのは一目瞭然だろう。「ピンク映画」黎明期の立役者でもあった一代の傑物、大蔵貢は主人が鑽仰したと言っても良い「活動屋」であり、未だ敬せず黙殺ばかりが一般の風潮だった昭和五十年代から率先して評価していた。
 これも、白羊宮の原点が大蔵映画に始まるからに他ならない。本人からは遂に聞きそびれたので以下は筆者の推測に過ぎないが、学生だった彼は往時、映画会社を訪れては旧作の宣材を分けて貰うことを何度か試みたと聞かされたので、大蔵映画との接点もこの辺りにあったのだろう。後の上映会の時期を勘案すると、昭和五十七年前後に憧れの映画会社を訪れたと思しい。ここで幸運だったのは、応対したのが内藤憲一だったこと。新東宝で輸出入をも司る営業調整部に在籍した内藤は、大蔵映画に移った後も大蔵貢の片腕として、配給する洋画の選択、宣伝等の実務を任されて来た当事者だった。幅広い知識に驚き、邪心の無い純粋な情熱にほだされたこの大蔵社員は、権利切れの為に廃棄寸前だった上映プリントの一部を彼に委ねることを提案する。自ら手掛けたプリントがあっさり処分されてしまうよりは、どこかで生き続けてほしい。台湾との合作映画『死棺破り 逆吊り幽霊』をいとおしむ余り、保存用に自腹を切り丸々一本焼き増ししたことさえある内藤も、映画への愛情では人後に落ちなかった。互いの銀幕への思いが通じ合っての天の配剤、賢明な選択だったと称えたい。
 程無く催されたのが昭和五十八年十月十四日、白羊宮最初の上映会だった。正しく瓢箪から駒、大蔵旧蔵のフィルムがあったからこそ、上映会が可能になったのである。翌年に渡る六回の会場となったのは、市谷のシネアーツ試写室。ここは大蔵や内藤が作品選定に用いた場所であり、内藤の口利きで上映が許されたと言う。大蔵旧蔵作品はこの後、平成二年八月十五日に『怪談生娘吸血魔』『パリの化猫』『幽霊屋敷の蛇淫』が、十月二十日には『呪いの霊魂』『古城の亡霊』が神田日仏会館で、また『死棺破り 逆吊り幽霊』も八年三月一日にシネアーツでの再上映が実現してもいる。

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付記・文中にある「別掲付表」は初出時に転載された上映一覧。今回、代替資料とて、後篇に「失われた鬼趣を求めて」の判読可能な拡大図版を掲ぐ。(乙酉如月)

後篇に続く


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