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太宰治とまふまふ

中学生のころ『人間失格』を読み、ああこれは私のことだ、と打ち震えて以来、太宰治は私の一番好きな文豪だ。この人だけは私の暗い部分を分かってくれる……そんな甘く苦しい幻想を抱かせてくれる巧みな文体が大好きで、読むたび恋する気持ちになる。
20代前半のころ、太宰治を好きと言うと、訳知り顔で「そういうのに傾倒しがちな年頃だよね」というようなことを言う人がいて、何となく嫌な気持ちになったものだが、アラフォーの今でもちゃんと変わらず大好きだということを、声を大にして言いたい。
そして、今も太宰治をこよなく愛する私は、それとほとんど同じベクトルで、アーティストのまふまふが好きだ。新曲の『一生不幸でかまわない』を聴いて、しみじみそう思った。まふまふの曲を聴くと、この人は私の叫びたいことを私の代わりに叫んでくれている、という気持ちになる。きっとこの人は私と似た心の形をしていて、似たようなことで傷つき、苦しみながら生きてきた人なのだ、だからこんなに私の心に響くのだと、そんなふうに思わせてくれる。

ただ、私はもう、太宰治に心震えた中学生の私ではなく、その3倍近くを生きたアラフォーなので、さすがにもう分かっている。それは気のせいだということを。作家やアーティストを自分と同じ感性だと思い込み入れ込みすぎることの危険性は、さすがにもう分かっている。太宰治の『恥』なんて、まさに、そういうファンへの警告だったのではないかと思う。太宰治ファンには、実際『恥』に出てくるような女の子も、多かったのだろう。私も思春期のころに太宰治と同時代を生きていたら、危なかった。

太宰治もまふまふも、自分自身の弱い部分や暗い部分と向き合い己の魂を削って作品を創り出すタイプの人だと思う。しかし、それでもやっぱり、作品はあくまでも作品だ。その人そのものではない。作品ですべてをさらけ出しているように感じるのは、そのように思わせる作者の表現力が優れているに過ぎない。

そのことを肝に銘じつつ、それでもやっぱり私は、弱い部分をすべてさらけ出し魂を削って(いると感じさせる巧みな表現力で)、己の痛みや苦しみ、怒り、滑稽さを力強く作品に昇華していく、太宰治とまふまふが大好きだ。これからも、これは私のことなんだ……という幻想に酔いしれていたい。