認識論の「知識の標準分析」は地雷

分析哲学の認識論で、「知識」の標準分析あるいは古典的定義と呼ばれているのは、以下の主張である。

知識とは正当化された真なる信念である

現時点で日本語で読める認識論の入門書としては、
・戸田山和久『知識の哲学』2002
・上枝美典 『現代認識論入門』2020
・プリチャード『知識とは何だろうか』2022
の3冊があるが、いずれも最初の出発点あるいは叩き台として、上記の「知識の標準分析」を紹介している。

あらためて書くと、知識の標準分析とは、「信念」「真」「正当化」という3条件を知識の必要十分条件とするもので、このうちの第3条件「正当化」に関するゲティアの批判が最近数十年の議論の出発点になっている、というのは皆さんご存じの通りである。

しかし、この3条件が知識の必要十分条件かどうか以前に、このような問題提示のパターン自体がトラブルの元凶だと言いたい。

まず「命題的知識」(know that)と「能力知識」(know how)を区別し、前者に話を限定した上で、多くの場合、最初の2条件「信念」「真」が少なくとも必要条件であることはプリチャードによると「認識論者のほぼ全員が同意すること」(前掲書1章)だそうである。ここで「信念」と「真」を並べて書くことが混乱の始まりだと思う。

そもそも「知っている」(know)あるいは「知識」(knowledge)という言葉は、世界中のあらゆる言語に含まれている言葉であるが、それも当然で、歴史的に人間にとって不可欠な役割を果たしてきた言葉なのである。人間の動物としての最大の特徴は、生活環境に関する情報や技術といった知識を社会的に共有・継承・蓄積する能力であり、このことに特に異論はないと思う。人間にとって共同生活や共同作業は不可欠だが、そのために必要に応じて教育含め情報交換を行い、参加メンバの内部的情報状態の差を最低限埋める、といった調整が必要である。そのために使われる言葉が「知っている」であり、その意味で人間にとって重要かつ機能的に独特の言葉である。

哲学者の考え方では、日常使われる言葉はそのままでは曖昧かつ多義的なので、改めて理論用語として明確かつ厳密にきちんと定義して扱うべきであり、日常的あるいは歴史的な「知っている」の語用論は哲学とは別問題、なのかもしれない。確かに、例えば日常語の「水」と自然科学の「H2O」とはずれがあり、科学者が前者に関係なく理論主導で後者の水について語るのは当然だろう。しかしknowとwaterとは、どちらも重要ではあるが重要性の質が全く異なる。「知っている」は本質的に語用論主導の言葉であり、人間同士の情報交換で不可欠の調整機能を果たすことが存在理由である。そのことは「知識」「知っている」という言葉に関する理解と直観に組み込まれているので、語用論を無視して知識概念の分析をしようとすれば混乱に陥るのは当然である。

改めて書くと「知っている」は歴史的本質的に人の内部的情報状態あるいは能力に言及するための言葉である。従って「真」というような世界の状態に言及するための言葉ではない。「ある人が事実Aを知っている」と言うとき、Aが真であることを言っているのではない。Aが真であることは、当然の事実として前提されているのである。真理性を知識の必要条件とすることは、このずれ、つまり内容と前提というレベルの違いを見え難くする。

例えば「本日3時から会議室で打合せが行われる」という主張は、「本日3時に地球が存在する」という命題を論理的に含んでいるが、主張の内容には含まれない。「知識」は、このようなレベルの違いが決定的に重要な種類の言葉である。

誰かが「彼は山田が社長だと知らない」と言う場合、山田が社長かどうかに関する主張は含まれていない。また、「山田が社長だって知ってる?」に対し「知らない。だって山田は社長じゃなく副社長だから」という答えはあり得ない。これは語用論による揚げ足取りではない。この言葉ではまさに語用論が本質的なのである。

語用論の世界では、会話の協調原理が最高原則として支配していて、例えば「当たり前すぎて情報価値のないことは言わない」というような原則に従う。哲学では、哲学史上の議論の積み重ねというような文脈を与えることによって、この原則をある意味緩和し、例えば「私は存在する」とか、「自分には手足が二本ずつあることを知っている」とか一応有意味に言える。「存在」「知識」含めどのような言葉でも、新しい状況に対応するため、歴史的用法から離れた拡張的使用はある程度許されるし必要でもある。しかし物事には限度があり、それを越える人は言葉の意味の安定性について鈍感過ぎるのである。

哲学者が例えば「私はあらゆることを疑う。しかしその疑う私があることは絶対確実だ」などという場合、そういった思考の中で「私」とか「ある」とかいった言葉が安定した意味をしっかり維持し続けているというのは、全然当たり前のことではない。つまりこの懐疑的哲学者には、言葉の意味の安定性に対する懐疑が欠けている。

以上のような観点について最も重要な哲学者は、もちろんウィトゲンシュタインである。彼が分析哲学の正統的認識論で言及されることはほぼないようだが、それはやはり、知識の標準分析を出発点にする種類の哲学にとって、ウィトゲンシュタインが破壊的過ぎるだからだと思う。

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