存在は、存在している存在は、存在している存在はソン 酔うてゐる、充満の最中明滅す、タクシードライバーは死神 「愛なんて」「愛のようです」「愛だって?」あいだに落ちた あいあい傘です 文字という形が形にしか成らず 今日は読めないおやすみなさい 「石ころを転がしてくれ」 僕は家。外は五月雨。吹けよ島風。 線路を切り替えることなく通り過ぐ トロッコ問題よりも難解 「もう君は 分からなくていい」 糸屑の 僕ひとりだけ頭痛が痛い 駆けてゆく ぼくたちはただ かけてゆく
追記の注。ぜんぶ読めばそう書いているし、もうすでに手遅れかもしれないが、この文章における自殺という語は、たとえば社会問題としてのそれとはまったく異なる。まったくというのも異なるというのも誤用になる地点において。 ひとは、自殺を、死にかたのひとつとしてしか考えてこなかったが、むしろ、死は、自殺か、非自殺か、どちらかだ。 「みんな明日生きているかわからない」というのは、万人にひらかれた死の可能性についての言葉だろうが、さて、この、今ここにある、自殺できる可能性はどうしたものか
「愛するとは何だろうか」という問いは、まちがっている。ただしいのはこうである。「果たしてわたしは悲しんだことがあるだろうか」
わざわざこんなちっぽけな僕も 死んでしまうのさ えらそーな気分でまるで一人前 オチだけはどいつもおんなじ たどりつくまでややっこしい 花火が残ってる しばらくはつきあうよ この騒ぎが終わる頃 僕らはいないのさ 無理にとまって世の中の駅で遊ばれたいのさ ずっと不自然に はしゃぎ 笑い まわり足りずたそがれてる つきあい方を知ってる 花火を残してる しばらくはありがたい 現実逃避が終わる頃 誰かがいないのさ あんな近くで死んでる どうでもよくなんかなっちまいたくねー 花火が残
「生きている人間にしか、本は書けない。」
「人生に集中できません。」
おととい焼いたコーヒー豆をたしかめる。香りと味の足並み揃わず。それを踏まえて焼く。どうだろう。 コーヒーはただの飲み物だ。 その事実がただの人間を慰めることがある。 今日はこれでおわり。