コロナ対応から浄土真宗を味わう
新型コロナウイルスの流行が止まらない。緊急事態宣言との報も出ており、自分や身近な人が罹患するかもしれないという心配や、このまま一体どうなってしまうんだろうという不安ばかりが募る。
現金給付は条件付き?一律?
そんな中で、政府が一世帯あたり30万円の現金給付という支援策を発表した。ただしこれには条件がつく。年収換算で住民税非課税水準まで落ち込む世帯が主な対象で、収入が半分以下となった場合も一定の要件を満たせば給付されるそうだ。
つまり、一律ではなく、上記の条件を満たし、それが証明されれば30万円の現金給付が行われるということ。しかしこれだけのコロナウイルスの影響で、様々な業界において減収が見込まれる中で、困らないという人など、ほとんどいないのではないだろうか。そんな中でこのような条件をつけてしか現金給付をしないというのでは、本当に今支援が必要だという人のところには届かないかもしれないし、間に合わないかもしれない。
条件をつけずに一律給付にすれば、申請や審査に時間をかけることなく支援を行うことができるはずだが、お金のある人に支援することは無駄が多いということなのか、一律給付ということに対しては政府は頑なな態度を取り続けている。しかし、本当に支援が必要な人に、支援を間に合うように届けるためには、条件のない給付、一律給付こそが政府が取るべき方法なのではないだろうかと思う。
また、職業や国籍によって、支援の有無を考えるべきだという意見も散見した。風俗業であったり、外国人には、支援する必要はないという暴論だ。しかしなぜ職業や国籍で支援されるかされないかが区別されなければならないのだろうか。コロナウイルスは職業や国籍などを選ばないし、その影響もまたしかりだ。
収入の多少や職業、そして国籍などで別け隔てをして、支援をする/支援しないという差をつけてしまうというのは、公平・公正ということを基準として行われるべき国の政策にも関わらず、不公平を生み出し、国民同士の分断を生み出しかねない。また憲法14条にある「法の下の平等」の理念にも反する行いだろう。
誰もが新型コロナウイルスの影響で、心身や生活を蝕まれていく中にあって、どうしてそのような差をつけなければならないのか、本当に理解に苦しむ。こういう時こそ、損得勘定で動くのではなくて、誰もが間違いなく、そして間に合うように、国の支援が届くようにしてもらえたらと思わずにはおれない。
阿弥陀仏の救い
そんなことを考えていると、「はて、これは阿弥陀仏の救いということにも通じることではないか」ということが、ふと頭をよぎった。
「阿弥陀仏の救い」というのは、人としての境涯を終えた後、極楽浄土で仏と成らせていただける、ということであり、それが間違いないことと約束された人生の歩みを送らせていただける、ということだ。私のいのちが「仏と成ることが間違いない身に定まる」こと。これが阿弥陀仏の救いである。
そしてこの「阿弥陀仏の救い」というのは、「十方衆生」つまりありとあらゆる生命を目当て(対象)として向けられている。つまり一律なのだ。財産の有無や能力の優劣、性別、職業、家柄、国籍、肌の色、民族、そう言ったものは何一つ関係しない。
そして修行の段階だとか、積んだ徳の多さとか、そう言った条件もない。「◯◯したら救われる」とか「△△しなかったから救われる」とか、そういうことも一切ない。全く条件を問わない、無条件の救いと言われている。
そんなうまい話があるかよ、と思うかもしれない。あるいは、優れた人、できる人、努力した人、そういう人こそ本当に救われるべきで、劣った人、できない人、怠惰な人、そんな人は救われる必要など無い、自己責任だと思う人もいるかもしれない。
しかし、それではダメなのだ。本当に救いが必要なのは、優れた人やできる人ではない。頑張りたくても頑張れない、いくら頑張っても追いつかない、そういう弱い人、劣った人にこそ、救いというものは必要なのだ。
優れている人たちは、仏教の目的である「仏と成る」ということを、自分で頑張れば達成できるかもしれない。けれど、弱い人、劣った人は、自分では成し遂げられない、あるいは果てしない努力の果てに成し遂げられるの可能性もゼロではないのかもしれないが、それがこの命という境涯において実現することが不可能、つまり間に合わない。それではその人達は、仏と成ることができず、永遠に苦悩の輪廻を繰り返し続けることになってしまう。
では、少し条件を緩和してはどうか。誰でもできそうなことを条件にする。例えば毎日お経を読むというのはどうだろう。さほど難しい条件ではないように思える。けれど、それができない人も出てきてしまう。一日サボってしまったら?そしてそれはいつまで続ければOKなのだろうか?いつ終わるともしれない命を生きている中で、達成することは本当に可能なのだろうか。
そうやって考えていった時に、本当に救いが必要な人、最も弱い人、劣った人に救いを届けるには、条件というものを無くさなければならない。条件をつけるということは、そこから必ず外れてしまう人が出てきてしまうからだ。そうすると、「十方衆生」を必ず救うという阿弥陀仏の願いは、決して叶わなくなってしまう。その願いを実現するためには、救いは無条件でなければならない。
そして無条件の救いが実現された時、今度は、その救いは一律のものとなる。財産も、能力も、職業も性別も生まれも、一切問わない。一切平等の救いがそこに実現されていく。最も弱い人にスポットを当てた結果、それによって、すべての命が救われるということに繋がっていくのだ。
そしてそれは、私にとっても非常に重要なことでもある。なぜならば、もし条件のある救いならば、もしかしたら私はその条件から外れてしまう可能性があるからだ。
例えば今回のコロナ対策、30万円の現金給付という政策には条件がある。その条件を私が満たしていなければ、私は給付の対象にはなりえない。つまり、私はその支援を得ることができないのだ。私にとってみれば、私が得ることができない支援など、無いに等しい。
それと同じように、阿弥陀仏の救いのはたらきがあっても、もしそれに条件があったならば、私がその条件から外れてしまえば、私はその救いから漏れてしまう。そうなってしまえば、私にとってそれはなんの意味もなさないものになってしまう。
私にとって一番大切なのは、「私がその中に含まれるか否か」だ。自分勝手だと思われるかもしれないけれど、どれだけ優れた支援であっても、どれだけ勝れた救いであっても、私のことを抜きにして考えることは、私にとって全く意味を為さなくなるし、私がそこに含まれて初めて、私にとってその支援であったり、救いであったり、は、意味を持つものとなる。
だから「無条件で一律」である、ということは、とても大切なことなのだ。なぜならば、そうであれば誰も漏れることがなく、必ずその対象の中に、私も必ず含まれるからだ。間違いなく、私もその救いの中におさめとられていく。
そしてその「無条件で一律」の救いが届けられたすがたが「南無阿弥陀仏」だ。南無阿弥陀仏という言葉が私のところにある。それがそのまま、私が救われていくという状態なのだ。
例えが適切かどうかわからないけれど、一律の現金給付が届いたら、その瞬間、私は一定程度の期間の生活を送ることができることが間違いなくなる。
それと同じように、「南無阿弥陀仏」が届けられているということは、それがそのまま私が無条件に仏と成るということが間違いなくなるということだ。
私のところに今「南無阿弥陀仏」が届いている。それがそのまま、一律で無条件の救いが届けられているということなのだ。
自粛と給付 自制と救い
そう言えば、この現金給付の件では「#自粛と給付はセットだろ」というタグをTwitterで見かけた。どギツい言葉だが、この言葉が表しているのは、自粛が給付の条件になっているということではない。現金給付がある。これが大前提で、それを当座のお金として、外出や仕事をみんなで自粛しよう、ということを言い表している。
阿弥陀仏の救いというのも、やはりそれと似ている。自粛、つまり自分の言動を慎む、ということだが、それが救いの条件ではない。まず必ず救うということが前提にあって、その上で、できる限り慎みを持って生きてほしいという、生き方の方向づけが為されていく。「薬ありとて、毒を好むべからず」という親鸞聖人の言葉もあるが、間違いのない薬がある、救いがあることが前提となっている。その上で、そうだからと言って、自ら進んで毒に溺れるような生き方は慎もうよ、ということが言われている。
まとめ
今回、新型コロナウイルスの政府の対応、特に現金給付ということから、浄土真宗の教えを味わうという、自分でもよく訳のわからないことをしてみた。
しかしどちらにも共通しているのは、「一律で無条件」ということでなければ、自分がそこから漏れてしまう可能性があるということだ。そうなってしまえば、どんなに勝れた手立てであっても、私にとっては無意味なものになってしまう。
阿弥陀仏という仏さまは、私を決して漏らさない、と誓ってくださった仏さま。だから、私一人を救うために、「一律で無条件」の救いを完成してくださったという、途方も無い仏さまだ。
今回の件から、改めてその途方も無さを感じるとともに、間違いなかったなあ、私も漏れることがなかったなあ、ということのありがたさに気づいた思いがした。
そして、できることならば、今まさに生きていくことに困難を抱えている人に、間違いない支援が届くように、一律で無条件の現金給付が行われることを、心から願ってやまない。
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