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澍法雨

私は浄土真宗本願寺派という宗派の僧侶だ。本願寺派には「本願寺出版社」という出版社があり、浄土真宗に関する書籍をいろいろ出版している。

その「本願寺出版社」が『季刊せいてん』という季刊誌を発行している。とても良い内容の季刊誌で、本願寺派の僧侶で愛読している人も少なくないだろう。

そんな『季刊せいてん』の最新号で、私の好きな言葉が表紙になっていた。それが「澍法雨(じゅ ほうう)」という言葉である。この言葉は『仏説無量寿経』という経典にある言葉で、「法雨を澍(そそ)ぐ」と読む。仏の徳を表現する言葉の一つで、仏法を雨のように私たちに注いでくれる様を表している。

「澍」という漢字はあまり馴染みのないが、「うるおす。ほどよく降る雨でうるおす。また、恩恵を与える」という意味があるらしい。

思えば仏教では、私の有様を「渇いている」と見る教えである。「渇愛(かつあい)」という言葉もあり、仏教ではこれを「苦」の原因と見ていく。「愛」とあるが、これは私たちが現在使っている「他者を大切にする、愛する」という意味ではなく、「執着(しゅうじゃく)」や「とらわれ」として理解され、「欲望」に近い意味の言葉として使われている。なので「渇愛」とは、常に喉が渇いているかのように、満たされず、求め続けるような様子を表している。

この「渇愛」には「欲愛」「有愛」「無有愛」という3つがあり、「欲愛」とは、常に刺激を求める心を言う。「有愛」とは(私という)存在にとらわれることであり、死にたくないと思う心であったり、死んだ後でも「私」が存在するのだと思いたい心のことだ。「無有愛」とは「有愛」とは逆に、存在しなくなることを望む心と言われる。自分という存在が大切なあまり、自分で受け止めきれない境遇に置かれた時などに、死んでしまいたいと思うのは「無有愛」の為せる業なのかもしれない。

つまり、私は常に「渇いた存在」であるということだ。刺激を求め、それを手にし、一時は満足を得られるかもしれないが、また次の刺激を求める。タバコや酒、ドラッグの話をしているわけではない。食事もそうだし、本を読みたいと思うこと、音楽を聞きたいと思うこと、好きな人と楽しい時間を過ごすこと、私が望むことすべては、その刺激を満たしたいという「欲愛」によって生じ、それを満たすということが、私の一つの行動原理となっている。つまり、欲望の虜なのだ。

そしてそれをいつまでも甘受していたい、在り続けたい、在り続けるはずだという「有愛」につながるため、それには終わりがない。常に渇き、刺激という潤いをほんの一滴垂らしても、またすぐに渇いてしまう。砂漠に水をやるようなことを、私はし続けて生きている。いくら私を丸ごと潤そうとしても、私ができることには限りがあり、その渇きを完全に潤すことはできないのだ。

これは数年前の夏に気づいたことなのだが、雨の降らない日が続くと、土が渇き、お寺にあるいろんな植物も枯れそうになるため、時々水をやらなければならないことがある。ホースを引っ張り、植物に水をやる。水は始めこそ大地を濡らすが、すぐに飽和状態となり、水は土の上を流れていってしまう。私はその様子を見て「十分に潤ったかな」と思うのだが、少し土を掘ると、表面から1、2cm下の土は、渇いたままなのだ。大地を本当に潤そうと思うと、時間と、相当の水が必要になるのだということを、その時に初めて気がついた。

私も、その大地と同じなのだ。ほんの少し、水(私が満足するような刺激)を与えても、一度にたくさんの量の刺激を受け取ることはできない。受け取れないものは溢れてしまう。けれど、それでは単に表面上、濡れているように見えるだけで、私の芯から潤っているわけではない。私が芯から潤うためには、私が植物に水を与えるように、自分が満たされる刺激を与えても、またすぐに渇き、次の刺激を求めてしまうだけなのだ。

ならばどうすればよいのか。大地を芯から潤すもの、それは雨だ。雨は時間をかけて、じっくりと大地に浸透していく。「法雨」という言葉は、まさにそのことを表している。私が植物に水を与えるような、その場しのぎのものではない。私が芯から潤うよう、常に私のところに降り注いでくれる。それが「澍法雨」という言葉で表されるものであり、「仏」という存在・はたらきなのだ。

そしてそれは私が自分で自分を満たすような刺激とは、また別の潤いである。「私のいのちを丸ごと」とでも言おうか、「渇くことのない潤い」とでも言おうか、単に欲望を満たすという種類のものではない。「法楽」という言葉もあるが、本当の安心とか、本当に大丈夫なんだという感覚というか、そういう類のもの、喜び、なんだろう。

蓮如上人の言葉にも「そのかごを水につけよ」というものがある。「いくら仏法を聞いても、私は籠のようなもので、隙間から水(法)がこぼれ落ちていってしまうのですが、どうすれば良いですか?」と尋ねられた時に答えられた言葉だそうだ。隙間だらけの籠でも、水に浸ければ渇くことがない。

つまり仏法とは、渇きっぱなしの私を、真に潤すための教えなのだ。それが今、私の身の上にしっかりと届いている。「澍法雨」という言葉は、そんなことを教えてくれる言葉なのだ。私はこの言葉が好きなのは、そういう理由がある。

で、好きが高じて、実は長男の名前にこの「澍」という漢字を使おうと考えたことがあった。さらにそこに私の高祖父にあたる「大癡」から「大」の一字をいただいて、「大澍(だいじゅ)」と名づけようと。「大(ひろ)く、潤いを澍ぐような人になってほしい」そんな願いも込めて。我ながら、素晴らしい名前を思いついたものだ。

そして妻と二人、喜び勇んで役所に行き、戸籍の登録を行おうとすると、職員さんからまさかの一言が。

「この漢字は人名漢字に無いので使えません」

……
あっけにとられ、妻と思わず顔を見合わせてしまったことは今でも忘れない。

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