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内に虚仮を懐く

コロナウイルスの影響がとどまることを知りません。感染者が再び増加傾向にあり、7月22日よりはじめるとされた「Go To キャンペーン」も東京は除外という決定がされるなど、政治も社会も経済も、大混乱を起こしているように感じられます。

そしてそれは、私たちの心も大きくかき乱しているのではないでしょうか。「Go To キャンペーン」の東京除外も、「東京差別」という言葉を生み出すなど、コロナウイルスを恐れるあまりに、感染者や感染の可能性がある人を必要以上に忌避することは差別にも繋がり、現に各地で感染者の家族が迫害にあったり、引っ越しを余儀なくされた、ということを見聞きしました。

コロナウイルスは、誰でも感染する可能性があるものですし、その人の振る舞いが悪いから感染するというものではありません。感染者を必要以上に叩くような風潮が高まってしまうと、自分が罹患した時には、今度は自分が叩かれる番になってしまいかねません。

こちらの見附市のFacebookページにもあるように、誰もが感染しても責められることのないように、「安心して感染」できるような優しい社会を求めていかなければならないように思います。

賢善精進の相

さて、浄土真宗の開山・親鸞聖人の言葉にこんな言葉があります。

「外(ほか)に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」(『愚禿鈔』)

心の内に虚仮、つまり偽りや不実を抱く者が、賢い人や善人を装うべきではない、という意味の言葉です。

これはもともとは善導大師という方の言葉で、本来はこう読みます。

「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」(『散善義』)

自分の外側には賢く、善く、つとめはげむ姿を現し、心のうちにも、偽りや不実を抱いてはいけないという意味になるでしょうか。行いと言葉を調え、そして心に思うことも調える。身口意(しんくい)の三業を調えなさい、ということです。

この善導大師の言葉をどうして親鸞聖人が異なる読み方をしたかと言えば、この善導大師の言葉は元は漢文で、「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」と記されています。この漢文の返り点を打つ位置を変えて、読み替えをしたということになります。

そんなことをしていいのかの是非について述べることは私にはとてもできませんので、そのツッコミには触れないこととして、この2つの味わい方について、少し考えてみたいと思います。

善導大師の言葉の意味

善導大師の言葉は、一つには「善行」を勧める言葉として読めます。自分の内(心)も外(行為・言葉)もしっかりと精進して調えましょうということです。

もう一つの理解としては、外(行為・言葉)を調えるのであれば、自分の心もそれに一致するものでなければならないとおっしゃっている、というものです。外面ばかり賢人・善人のように振る舞っていても、心が伴っていなければ、それは見せかけのものに過ぎないぞと、諌めるような意味になるでしょうか。

このどちらの受け取り方にしても、善導大師が「善行」を勧めていることには変わりありません。善を行うのであれば、行いも、言葉も、そして心も調えて初めて意味があるということです。

例えば、今回のコロナ禍のことで言うならば、しっかりとコロナウイルスのことを学び、自分も感染しないように、そして人にうつさないような行動を心がけるとともに、不平不満を言うのではなく、感染している人がいれば、優しい言葉をかける。そんな在り方が「賢善精進」と言えるのではないでしょうか。

そして同時に、心に思うこともまた、その言行と一致するように、丁寧さと誠実さと優しさを常に持っておく、ということです。コロナにかからないようにうつさないようにと行いを調え、人に優しい言葉をかけていても、心の中で「うわ、東京から来たとかマジで勘弁して」と思っていては、せっかくの善い行いも台無しになってしまいますよ、と。

内に虚仮を懐く私

ところが、この行いと言葉と心、全てを一致させるのはとても難しいのです。外面だけを善いものとして振る舞うということは、やってできないことはありません。「和顔愛語」という言葉もありますが、なるべく笑顔で、優しい言葉遣いを心がける。社会人として生活する皆さんも、おそらく普段の生活の中で、それを実践されていることでしょう。

しかし、心の中で思うことが、行いや言葉と必ず一致しているかと言うと、そうではありません。元気な笑顔でいるようでも、心の中では苦しさや悲しさを抱えて泣いているということもあるでしょうし、腸が煮えくり返るような怒りを蓄えていることもあるでしょう。空気を読み、自分が思う本音と違うことを言葉にしたことは、誰にだって経験があるはずです。私ももちろんそうです。

私が住んでいるのはとある温泉街です。いくつもの旅館が並び、観光客が来てくれることで、町の経済が回っています。ですから、コロナウイルスの影響で緊急事態宣言が出され、自粛や不要不急の外出が叫ばれることで、観光客が来なくなる、というのは、町にとってはとても苦しい状況でした。

今では、緊急事態宣言が解除され、お客さんがまた来てくださるようになりました。町としてはとてもありがたいことには間違いありません。しかし、東京を始めとして、各地で再び感染者が増えてくると、心の中で思うことが変わってきます。これまではありがたいと思っていた県外からのお客さんですが、今県外ナンバーの車を見ると、やはり不安な気持ちが鎌首をもたげてきます。その方たちがコロナウイルスに感染していなくても、内心では「大丈夫なんだろうか?」と思ってしまう私がいるのです。

しかし、その心の内は、言葉や態度として外には漏らしません。それは、自分が「善人」でありたい、「良い人」でありたいという思いがあるからです。ありがたいはずの観光客に対して、不信感を顕わにすることは、決して感じのいいものではありません。つまり、内と外とで、全く別の姿をしているのが、私の在り方なのです。

そしてそれこそが、親鸞聖人がおっしゃる、「内に虚仮を懐く」という姿なのではないでしょうか。

我が身を恥じる

では、親鸞聖人がおっしゃる「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」という言葉は、どのように受け取れば良いのでしょうか。

「内に虚仮を懐く者は、外に現れる言葉や行動も、善人ぶったり賢人ぶったりするべきではない」と読めるこの言葉は、それならば心の思うままに、その醜さを発露してもいいということなのか、という一種の開き直りのようにも受け取れてしまいます。そして、それくらいなら、内と外が一致していなくても、せめて言葉と行動くらいは善いものにしたほうがいい。そんな風に思う方もおられるかもしれません。

しかし、親鸞聖人の言葉が表しているのは、そのように露悪的になることを開き直り、容認するようなことではありません。むしろその逆に、私たちの在り方そのものを振り返らせる言葉として理解すべきです。

親鸞聖人がおっしゃる「内に虚仮を懐く」という言葉は、自分自身の本性と、とことんまで向き合い抜いた上でなければ出てこない言葉です。なぜならば、私たちは大抵、自分はどこかで正しさを持っているとして生きているからです。自分は正しいと思うからこそ、人の言葉や振る舞いに対して、おかしいと感じたり、批判したりすることができます。自分に正しさはない、と思っているならば、決して他者を批判することはできません。

そして「内に虚仮を懐く」ということは、自分には正しさは微塵もないということ。虚仮とは、偽りであったり不実であるということですから、自分には真実性がない、正しさがないということです。自分自身のことを、そこまで見つめ抜くということは、決して容易ではありません。

そういう真実性のなさ、正しさのなさを見つめ抜いた時、生まれてくるのはどのような感情でしょう。「それならば好き放題してやろう!」というような、露悪的なものでしょうか。それとも、自分自身に対する情けなさ、あるいは恥ずかしいという思いでしょうか。

親鸞聖人が感じられたのは、おそらく後者であるはずです。自分自身には、真実性が欠片もない。虚仮不実の身であった。そのことに対し、絶望し、この上ない恥ずかしさ、情けなさを感じていかれたのだと思います。だからこそ、「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ」という言葉が出てくるのです。そのような恥ずかしい我が身であるから、とてもじゃないが、賢人・善人の振る舞いなどできない。言行と心を決して一致させることができない自分、内と外とを調えきることができない我が身を恥じ、だからこそ、善導大師の言葉を敢えて読み替えられていかれたのではないでしょうか。

どれだけ言葉を調え、行動を調えても、その内側が虚仮であれば、その言葉も行いも、その虚仮から生じたものに過ぎません。「雑毒の善」という言葉も親鸞聖人は用いておられますが、どんな美酒でもそこに一滴でも毒が混じればそれは毒となるように、私の心が虚仮であるならば、そこから起こり来る言葉も行いも、決して善にはなってはいきません。

善導大師は「善行」を勧め、言葉・行動・心を一致させるようにとおっしゃいました。それに対し親鸞聖人は、私は内と外とが決して一致しない虚仮なる身であり、善すら勧められない、恥ずべき身である、という理解をされているのです。

けれどその立場に立った時には、常に自分自身の言葉や行いが、決して善なるものではないと受け取られ、逆説的ではありますが、常に自分自身の言行を見つめ直していかなければならないというように繋がっていく。そんな風にも理解することもできることでしょう。

正しさに酔わないこと

そう言えば、つい先日Twitterで「正義中毒」という言葉がトレンドに上がっていました。これは脳科学者の中野信子さんが作られた言葉だそうですが、他人の行いが許せず、誤った正義感から過剰な誹謗中傷などを行ってしまう状態を指すそうです。

ところがTwitterでは、その「正義中毒」という言葉が、ほとんど、と言っていいほど、他者の姿勢を批判する言葉として用いられていました。私はそれを見て思わずゾッとしたのですが、この「正義中毒」という言葉は、決して人に対して向けて使うべき言葉ではないと感じました。そうでなければ、人の意見に対して「自分はこう思う」を主張することも「正義中毒」の一言で片付けられてしまいますし、批判することもまた同様に「正義中毒」という言葉によって封殺されてしまいます。

そうではなく、私自身が、正義というものに溺れてしまっていないか、それをチェックするため用いてこそ、「正義中毒」という言葉は有意義なものになるはずです。

それはつまり、自分自身の不確かさというものを常に見つめていくという姿勢です。そして、自分自身が虚仮であるという事実に目が向けられた時初めて、「私は正しい」という酔いから醒めることができる。今回ご紹介した親鸞聖人の言葉も、そんな教えとして受け取ることができるのではないでしょうか。

コロナウイルスの混乱が続く今、日本社会もまた、大きなストレスによって様々な分断が巻き起こり、殺伐としてしまっています。そんな時だからこそ、今一度自分自身の在り方をしっかりと見つめつつ、他者をいたわる、優しさを取り戻していきたいものですね。


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