AI絵師の筆を折らせるなら鳥山明に影響を受けたクリエイター全員の筆を折らなければならない
生成AIを理解したり批判したりするには、その本質というものをまず理解しなければならない。
AI絵師が作っているものは何か
AI絵師が作っているのはピクセル単位のRGBデータの行列である。
実際のところのデータ構造は拡張子に依存するが、どのような画像データも最終的にモニタに表示されることを考えれば間違ってはいまい。
ただ本当の意味でランダムに作られただけのRGBの行列を見せられても、僕らはそれが何か認識できない。
人間の描く絵というのは往々にして意味がある。
意味があるというのは一定の法則があるとも言い換えられる。
この法則を学ぶのが、生成AIにおける学習という機能である。
AIの学習とは
AIにおける学習とは法則の発見である。
たとえば「りんご」をgoogle検索して、画像を1億枚見せたとしよう。
各画像のRGB情報を獲得し、まず色を確認する。
どうやら赤色がどの画像にも多く含まれるようだ。
そしてその赤色は球に近い形状に固まっている。
どの画像でもそうだ。
そして茶色の棒がその上から突き出ていることが多い。
そこまで理解したAIにりんごを描かせれば、おそらく赤い丸に茶色の枝が生えた画像が出てくるだろう。
これが生成AIである。
画像の各ピクセルのRGB差分にしきい値を設ければ輪郭も判定できるし、そこから線を認識し、一致するカーブを形成するための方程式を求めることもできる。
使用する色合い、隣接するピクセル間の色差分を見出し、グラデーションのかかりかたなんかも学べる。
絵で言うところの絵柄ってやつだ。
りんごとはこういうものだという定義を直接与えられていないのにも関わらず、多数のりんごから法則性を見出す。
こうして学習が完了し、モノマネを出力し、今日において数多のイラストレーターの沽券に関わる問題となったわけである。
ここまでは説明。
ここからが問題。
それって人間のイラストレーターと本質的に何が違うんだろうかという話。
0/1を跨ぐクリエイティブな人間などほぼいない
文化とは一定ではないが、連続的なものだ。
若者言葉なんかを例にするとわかりやすいだろうか。
「キモい」という言葉がある。
皆さんご存知の通り「気持ち悪い」の略だ。
これは言葉の短縮であり、言葉の創造というより変質である。
本当に言葉をゼロから創造すると「もっぺろぺっぽー」「くらんてと」「じゃみたれ」とかになる。
何を言ってるかわからないだろう。
文化の連続性を外れた「創造」というのはそういうことだ。
何が言いたいかと言うと、一般的に人間社会で言われる「クリエイティブ」というものは概して「既存文化の部分的な変質」に過ぎないのである。
絵も同じだ。
デジタルアートがある。水彩画がある。油彩画がある。水墨画がある。壁画がある。
萌え絵。漫画。アニメ。シンプルデフォルメ。
全て既存の「絵」という概念を変質させ、分化してきたものだ。
何事においてもゼロからものを生み出した人は、はるか昔のどこかにいるのだろうが、現代の僕らがやっているのは所詮そういうことである。
なぜか。答えは決まっている。
あなたは文化の連続性から外れた絵が欲しいだろうか。
誰も欲しくないものが社会に受け入れられるだろうか。
所詮、と貶してはいうものの、誰かの堕落が招いたことではない。これは必然の結果だ。
つまるところ。
AI絵師vsイラストレーターという対立構造において、「AI絵師にアイデンティティをパクられた」と主張するイラストレーターも、結局は他の誰のアイデンティティをパクったうえで成り立っている。
漫画というジャンルの偉人といえば、先日亡くなられた鳥山明氏。手塚治虫氏や水木しげる氏。まずそのあたりの御仁が思い浮かぶ人は多いだろう。
名を個別に挙げてみたが、彼らの絵柄に憧れたわけではない人間もまた同じことである。
そもそも漫画絵というのは実際の人間よりデフォルメされているわけだが、人間の目なんて本来あんなにデカくないわけだ。
鼻が点に見えることもないし、笑ってるときに目を閉じる奴はいない。
でも我々は当たり前にそう描き、それを違和感なく受け入れる。
そういうものだと学習しているからだ。
そして学習のためのデータは先人達の作品に他ならない。
それならやはりAIの学習と本質的に何も違わないではないか。
AIは悪質なパクりで人間なら良質なパクりだなんて、烏滸がましいにもほどがある。
鍵は学習ではなく人間にある
人間の学習とAIの学習はそう変わらないということを説明してきた。
我々はパクり、パクられ、小さな変質を繰り返す文化の連続性の中で生きていると。
ではイラストレーターの生きる道はないのだろうか?
答えは「ある」だ。
virtualとは
今や当たり前のように聞くが、昨今のバーチャルという言葉はあたかも「虚」「偽」であるという印象がついて回ってしまっている。
偽物の体、アバターを被り、偽物の世界をうろつくことをバーチャルだと思っている人が大勢いる。
違う。
何もかも「仮想」などという欺瞞に満ち溢れていそうな日本語訳のせいだ。
virtualとは実質だ。
それそのものが例え物質的に存在しなくても、見えなくとも触れなくとも、特定の文脈においてそこに「ある」かのように扱えることである。
例えばバーチャルマシンという概念がある。
windowsOSのPC上で多数のAndroidマシンを走らせてゲームのサブアカウントを大量に作成したり、開発テストのためにwebサーバマシンを複数立ち上げ通信させたりも出来る。
実際は物理的なAndroidのマシンもサーバも存在しない。だが、あたかも「ある」ように扱える。だから実質的にマシンがあるよね、と言える。
これこそがバーチャルの本来の意味である。
バーチャルの説明としては以上だが、そのうえでさらに気をつけなければいけないことがある。
実質を決めるのは文脈であるということだ。
上記のバーチャルマシンの例では、「Androidタブレットで扇ぎたい」とか、「サーバマシンを鈍器にして戦いたい」という欲求は当然満たされない。
その場合は「団扇」や「鉄の塊」が実質足り得る。
何が実質なのかなんて話は、あくまでその文脈の物差しがなければできないのである。
今流行りのVirtual Youtuberなんてものもそうである。
彼らはアバターを被っていることをバーチャルであると思っているが、そもそも画面に映ったものは全てバーチャルに過ぎない。映っているものは絵でも人間の画像でも変わらない。
視聴者にとって必要なのは画面に表示される縦横数百ピクセルのRGBデータと、理解可能な言語の法則に当てはまる音波と、インタラクティブなコンテンツに参加していると認識可能なコメント機能やそれに対するレスポンスであって、そこに本当に生身の人間がいる必要性はない。
実体は実質に関係がない。
だが僕らにとって本当にそうだろうか。
そこにある「人じゃない何か」を僕らは応援できるのだろうか。
人間の魅力
virtualであるためには文脈が必要という話をした。
そして文脈というのは一定ではない。
そこである。
例えば著名人のサインというものがある。
これが手でペン持って直接書いたものだろうが、コピーしたインクの染みだろうが、画像データとしての情報量は変わらないわけだ。
だが見る側も結局人間である。
直接書いたものであれば、何となく本人の温もりや想いがあるように感じられる。そこに合理的な理由などはない。
これは数億円の量子コンピュータを使ってもそんな価値は生まれない。
もちろんコンピュータ大好きナードにとっては話は別だが。
実質は理屈で説明できるが、その前提となる文脈は必ずしも理屈ではないのである。
ものの価値というのは消費者の持つ文脈が決めるのだ。
たしかに「一枚の絵の完成」という作業から、ビジネス上の特別な価値は失せつつある。
生成AIの誕生はその序章。そのとおりだ。
だが社会の求める文脈に生成AIは必ずしも追いつけない。
そしてイラストレーターが、もっと言えば人類が人の魅力を消してAIと戦えば勝てるわけもない。
人としての魅力のない人間がAI以下として扱われるのは、どこの分野においてもいずれ訪れる当然の帰結である。
もしSNSにガチャと焼き肉と猫の画像を貼り、AIに文句を言っているのが人間の価値だというのなら。
私はそんなもの滅んでも構わない。
AIに取って代わられる未来も、たしかに現実になるだろう。
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