見出し画像

パトリオティズム(愛国心)

ナショナリズム(Nationalism)もパトリオティズム(Patriotism)も、日本語だと「愛国心」と訳されることが多いのですが、ぜんぜん違う意味を持っています。
日本では、パトリオティズムを「ナショナリズムの過激なやつ」のように考える人もいますが、違います。
ナショナリズムはNationを大事にする心、パトリオティズムはPatriaを大事にする心です。

・・・パトリアってなに?

パトリアは、ラテン語で「故郷」や「祖国」といった意味を持つそうです。ちなみにパトリ(Patri)が「父」を意味します。パトロンとかパターナルとかありますし、パターンというのも、ここから派生した言葉だそうです。
パトリアは「父なる土地」とでもいう含意があるのでしょう。

ラテン語は古代ローマの公用語ですが、哲学者キケロは「パトリア」は「故郷」というだけでなく「自分が市民権を有する国」を意味するとして、その「市民的祖国」のための自己犠牲精神を説いたといいます。
これが「パトリオティズム」です。

共和主義的な愛国心=パトリオティズム

「自分が市民権を持つ祖国」というのは、国王の臣民として自分が暮らしている国ではなく、自分が主権者(市民=シチズン:Citizen)として暮らしている国、すなわち民主主義・共和主義的な国のことです。
ということは、王様とか国家権力に忠誠を誓うことは、実は「パトリオティズム」ではない、ということです。
むしろ、私利私欲のために権力を乱用したり、自由や平等を脅かすような権力者は、パトリオット(愛国者)の敵というわけです。

つまり、愛国者(パトリオット)とは、もともと反体制側の人々だったのです。具体的に言うと、体制に反抗してフランス革命を起こし、国王らをギロチンで処刑しちゃった市民たちのような人です。この事件で、フランスは共和制に移行したのです。

そうすると、腐敗した権力者に怒らないで、逆に権力の腐敗を追求する野党や市民を攻撃する人たちは、ぜんぜん愛国者(パトリオット)ではなく、むしろ民主主義国家の愛国者にとっては最も軽蔑すべき敵なのです。

「国家」が中心になるナショナリズム

こう考えると「パトリオット」という言葉に「愛国者の過激なやつ」というイメージが付きまとうのは、反体制革命のイメージから来ているのかもしれません。
腐敗した権力者の暗殺が成功したのを「良かった」とか言っちゃう人は、まさにパトリオットなんだと思いますし、僕自身もパトリオットのような気がします。

一方のナショナリズムは、大きな民族共同体であるネーション(Nation)を愛する心なので、そこに自分の主権があるかどうかは、あまり関係がなさそうです。その国(ネーション)に生まれて、その国の言葉と文化の中で育つことで、人は帰属意識を持ちます。
ネーションへの帰属意識は、他のネーションの存在が前提になります。他のネーションが存在するから、自分の帰属するネーションを意識するわけです。つまり、ナショナリズムは、国粋主義や排外主義に陥る危険もあります。

オリンピックやワールドカップなどで、自分は競技と全然関係ないのに、自国の代表チームだというだけで熱狂的に応援してしまう心理も、パトリオティズムではなく、ナショナリズムによるものですね。

ナショナリズムと矛盾するパトリオティズム

ナショナリズムとパトリオティズムは、ときとして矛盾することがあります。

アメリカの戦争映画なんかで、悪者の日本軍と戦う勇敢なアメリカ兵が主人公だったりすると、自分は日本人のはずなのに、なぜか主人公のアメリカ兵に感情移入することがあります。
これは、映画の中のアメリカ兵が持つ「正義」が、自分のパトリアだからなのだと思います。もちろん、それは映画の中のフィクションなので、それで自分の国を憎んでいるのではありません。

また、過去に日本が犯した戦争犯罪などを断罪されたとき、やはり被害者に感情移入することになりますが、同じことです。人間としての正義や人道というものがパトリアとして内面化されていれば、いくら自分の国のことであっても、それを擁護するのはパトリオティズムに反することです。

では、こうしたパトリオティズムは、ナショナリズムを毀損するでしょうか。僕はそう思わないのです。
自分が否応なく帰属しているネーションを、自らのパトリアとして誇らしく思えるようにするのが、主権者市民である自分自身の役目だからです。

よろしければご支援をいただけると助かります。