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スミソニアン事件

当初の企画

広島に原爆を投下したB-29「エノラ・ゲイ」は、その知名度とは裏腹に、戦後永らく空軍基地に放置されていました。機体の劣化が進む中、退役軍人会などから復元を望む声が上がり続け、スミソニアン航空宇宙博物館で復元が行われました。
スミソニアンでは、たいへんな苦労とともに「エノラ・ゲイ」復元を進め、終戦から50年の機会に「分岐点…第二次世界大戦の終結、原爆と冷戦の起源」という展示を計画しました。
この展示の眼目は、原爆を投下した「エノラ・ゲイ」の実機とともに、世界を変えてしまった兵器がもたらしたものについて、来場者に問いかけることでした。
企画を考案したマーティン・ハーウィット館長たちは、この展示のために広島や長崎も訪れ、原爆被害を物語る資料の貸し出しや、展示への理解を求めました。日本側には、あの「エノラ・ゲイ」が博物館に展示されることへの抵抗もありましたが、原爆被害の悲惨さを伝えることの重要性などから、展示への協力が行われることになったのです。

バックラッシュ

スミソニアン博物館では、それ以前に「戦略爆撃」について取り上げたこともあって、「エノラ・ゲイと原子爆弾」の企画展も問題なく開催できると考えていたようです。
しかし、企画内容が少しずつ表面化すると、アメリカ国内で大きな反発が起きました。反発したのは、退役軍人のグループや空軍関係者と、これらを支持母体とする右派政治家たちです。

アメリカでは「原爆の使用で日本が降伏し、結果的に日米両国で多くの人命が救われた」というのが「公式のストーリー」になっていました。アメリカは、原爆の非人道性を、そういう「ストーリー」で正当化してきた歴史がありました。
しかし今では、情報公開された資料の調査や、歴史家たちの研究が進んだことにより、「原爆の使用が人命を救ったという事実はない」というのが定説になっています。
スミソニアンは当然、後者の学術的な定説に沿った形で「原爆の意味」を展示しなくてはなりませんが、これが右派の逆鱗に触れたのです。スミソニアンの展示計画は「アメリカの誇りを傷つける」とか「戦った将兵への敬意に欠ける」として、博物館への攻撃が繰り返されました。
また、原爆被害を展示するなら、太平洋の戦いで無惨に戦死したアメリカ将兵についても展示しろ、という声も多かったようです。

この顛末は、ハーウィット館長が詳細にまとめたものが、出版されています。

敗北

結果的に、博物館は地上被害の展示を大幅に縮小し、当たり障りのない展示に差し替えられてしまいます。
「前線で苦しんだアメリカ将兵」については、それを展示すると「原爆の使用はアメリカによる報復であった」という、アメリカ人にとって逆に不名誉な意味を持ってしまうので、さすがに取り入れられなかったようですが、広島市民の苦しみに関する展示はバッサリと削減されたのです。
そして、この騒動を起こした責任を負わされたハーウィット館長は、周囲の圧力によって辞任を強いられることになってしまいました。

この騒動は日本でも報道されました。
しかし、報道の視線はスミソニアンに対して冷たいものでした。

「原爆投下機を誇らしげに博物館に展示するなんてけしからん!」という怒りが寄せられただけでなく、「広島の協力が裏切られた!」という怒りがあったのは当然でしょう。
こうした論調での報道が日本のテレビに流れ、僕も航空博物館という学術機関の難しさを、改めて思い知ることになりました。
(当時、僕は日本で航空博物館に関わっていたのです)

歴史修正主義への抵抗

博物館は学術機関ですから、歴史を正しく伝えなくてはいけません。
それがたとえ自国の恥部に触れるものであっても、目を背けたり、美化したりしてはいけません。
むしろ、自国の恥部や暗部だからこそ、それを正しく見つめることで教訓にできるのです。それが博物館の役割です。

非営利である博物館の運営は、国や自治体に頼らざるを得ない以上、為政者による歴史修正の圧力は常に存在します。これに抵抗することこそが、博物館の学芸員に課せられる重大な役割です。ハーウィット館長は、その意味では実に素晴らしい人物だったのです。

残念ながら、日本ではそうしたことを正面から見つめる勇気のある人が、ほとんどいません。
博物館に置かれた飛行機を過剰なまでに美化して語ろうとする人は多いのですが、その「失敗」について語れる人がいないのです。
これはやはり、文化の敗北だろうと思います。

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