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サウナでととのっている自分にひよどりが寄ってきた話

最寄りの温泉に割といいサウナがあって、ホームサウナとしてお世話になっているんですが、、、職場から3時間オフをいただいた先日、サウナーなわたくしは、ぴょいと出かけて速攻サウナの外気浴でととのっていたら、、、目を開けた空に緑が生えて、ちょうどタイトル画像のようにひよどりがこちらを見ていました。鳴き声が特徴的なのでひよどりとわかります。

自分は義理の祖母(妻の祖母)が亡くなってから、鳥が寄ってきたらばあちゃんが(孫たちひ孫たちの様子を見に)来た、と感じるようになっていて(いやまあその是非は置いておいて)、今回もばあちゃん来た、とあっちの世界との交信のように身近に感じて心の中で話しかけようとしたら、、、

びっくり!

自分に向かって飛んできた。。。


状況を説明すると、、、天然温泉を歌った都市近郊のよくある大きめの温浴施設で、露天風呂があり、植栽があって、いろんな木々が結構豊富に植えてあって綺麗な青葉が冬でも青い空に生えているようなそんな外気浴スペースで、、、寝椅子に寝そべって「ぷー」とカラッポになって口開けて寝て意識を取り戻すと、最近はいつも頭上にキンカン(金柑)の実がなっている。

金柑といえば、自分にとっては子どもの頃、母が作ってくれた甘く煮たやつを思い出すノスタルジックな実。それを見てなんだかホッとしてまたぼーっとととのいタイムに戻る、みたいな、日頃はそんな空間。

そのキンカンの実を目指してひよどりが一目散。自分の頭との距離1メートルくらいす^^;しかも頭上。いや君近いな。まあいいけど、でもうんこすんなよ。

そんな感じでキンカンの枝を見上げて素っ裸で観察していると、、、

実をついばんで、もぎって、口に咥えて、自分の隣に降りてきた^^;


いやいやいや、近いでしょ流石に。都市近郊に住むとはいえ、野生生物なんだから、もうちょっと緊張感を持って、、、と勝手に素っ裸で焦っていたらちょこんと、自分の寝椅子のすぐ上(頭の方)の植え込みに陣取って食べ始めた。。。距離:腕を伸ばせば普通に届くくらいで60〜70センチくらい?やはり近い^^;

こちらを気にしつつも、食べるのに夢中。

へえ〜、こんな近くで食べるのね、となんだか嬉しくて体が冷えてくるのも構わずにしばらくずっと観察&心の中で対話。なんだか幸せな時間をいただいたのでした。

こんな感じ:青空に金柑が映える。

この話、まだ続きます^^;

とある漫画でこんな場面を知ってしまい、なるほど、そういうこともあるものか、と感心したりもしたのでした。俺って寂しいのかな?いろいろ恵まれているので自分じゃわからんね^^;

ひよどりに慰められた説?


そしてそんななぐさめひよどりは吉兆だったのか、つい一昨日、嬉しいことがありました。


自分はこの5、6年ほど、息子たちのバスケコーチ(小学校〜中学校)として過ごす時間が割とあったのですが、次男が地元の強豪ユースチームの一次選考に受かりまして。

まだ本選で選ばれたわけでもそこにいくことが決まったわけでもないのですが、一次選考に受かったと聞いて気づいた自分の感覚は


コーチとしての自分のゴールは達成された


というものでした。まだ中学での部活動も続きますし、コーチ業も訪問看護が忙しくてサボっているので周囲から怒られそうな感覚なのですが^^;あくまで息子に対するコーチ業、という意味合いで正直な感覚を書き残しておきます。

説明が難しいのですが、自分にとってはそれは大きな達成で、チャレンジで、もう自分に合格点を出してあげてもいいレベルなのでした。ここからは親として息子の進路ややりたいことを(コーチとしての義務感ではなく・親の方が夢中になって息子にプレッシャーを与えるような関わりでもなく)純粋に応援してあげればいいのだ、という(息子に対するコーチ業からの)プレッシャーからの解放を意味する祝福な出来事なのでした。

というわけで、
一人で勝手に盛り上がって(息子は2次審査を受けている最中なのに)祝杯をあげていたのでした^^。

高校進路をどうするか、という観点からそのユースチームに入ることが絶対正解なわけでも(練習時間も長いし×塾どうするか問題などもあるし)そもそも受かるかどうかもわからないので、そこから先はある意味自分の責任ではない、というか、コントロールできない領域、と感じているのか、自分の仕事は一旦ここまで。これからはあなたの選択、あなたの人生、という感覚があるようなのでした。

この辺の感情も、勝手に祝福・勝手にお祝いをしている自分を不思議に感じている自分がいて、理解できた感情・感覚なのでした。

体育館で一緒に過ごした時間は宝物


意味は後からついてくるなあ、と感じています。


この話、まだ続きます。

養老先生の新著を時間がある時につまみ食い読みしているのですが、、、

"意味"を理解することの難しさや位置付けが書いてありました。

"言葉"や"言葉を発する(伝える)"こととの違いについても。


ヒントをいただいて考えます。

意味とはなんでしょうか?

言葉とはなんでしょうか?


言葉とは、意味を伝えるものだとすると、意味とは何か、という問題が残ります。意味とは、その辻褄や価値に気づくこと、だと(今の自分の感覚から勝手に)仮定すると、「人生は統合できるのでは」、と感じている自分がいることにたどり着くのでした。


ここ、もう少し書いてみます。


自分は子どもの頃から異文化の間で育ち、割とキャラが立っていて複雑でややこしい親戚に囲まれて、親戚間の感情のもつれやトラブルも両親を通してよく見てきました。要するに家族内や親族間で喧嘩ばかりしてた^^;

小学生の自分は、祖父母、特に祖母の気持ちを聞いたり、愚痴を聞いたり、悩み相談を聞いたりしていました。今考えると、あるジャンルのヤングケアラーだったのかも。。。

なんで自分ばかりこんな目に遭うんだろう?なんで自分ばかりこんなめんどくさい家族めんどくさい親戚に囲まれて暮らしてるんだろう?なんでもっと簡単に楽そうに「仲良く」幸せそうにしている家族があるのにうちはそうじゃないんだろう?

そんなことばかり考えて大きくなりました。

それが、49歳で訪問看護事業所を立ち上げて訪問看護師になった途端、意味がわかりました。

多重課題なご家庭、がん末期に直面している仲のいい高齢ご夫妻、子育て負担と直面する若いご夫妻、などなど。

人間の全てのライフタスクと終着駅が詰まっているのが訪問看護というお仕事だから。自分の生い立ちの苦労も、関係性の経験値も、子育ての苦労も全て全部入りで活用できる。そんなお仕事だから。

自分にとって訪問看護という器は、ちくわのわーさんでいうところの最後のシーンのおなべに似ています(なんのこっちゃ、という人は「ちくわのわーさん」をチェック!)


それまでの人生の旅路、人生で出会った色んな人や体験の全てが、最終的には最高の具材として、おいしいおでんが出来上がる(ネタバレ注意!)そんな体験を訪問看護の日々の営みを通じて体感・実感しているのでした。

意味(への気づきとその解釈)は体験の後に訪れます。


訪問看護はじめて半年経って、必死に過ごした半年間を経て、色んなことの「意味」が解釈され始めているのも、また「体験」によって得られことなのだろうと思います。


人生は"体験"によって統合され、伏線は回収されるのかもしれません。


その観点に立つと、
この長ったらしい、どこにたどり着くかわからない^^;文章を読んでくれている、(我慢強い)そこのあなた。ここまで読んでくれてありがとうございます🙇‍♂️

そのあなたが今直面している全ての苦労、苦難、挫折、怒り、憤り、嫉妬、コンプレックス、猜疑心、卑屈さ、醜さ、悲しさ、孤独、混乱、カオス、裏切り、性欲、承認欲求、支配欲、権威欲、外気浴、全てにきっと意味があります。


そしてその「意味」は、その後の(何十年後か知らんけど)人生のどこかの「体験」によって伏線回収され、統合され、美味しいおでんになって、

「ああ、自分の人生におけるあの体験はこのためだったのだ」と「気付く」(これはその人本人にしかわからない感覚のような気がしますが)"祝福"が訪れる。


50歳を目前にしたおっちゃんは、最近そんな風に感じているのでした。


そして探求はつづく。

バタバタすぎて写真撮ること忘れてた年末年始の貴重な1枚。息子たちとホームサウナのある温泉でパシャリ(懐っこいひよどりがいるのはここ)。このブログは息子たちへの長〜い遺書のようなものなので、今日のようなことも息子たちに向けて書いています。あしからず。


ウィルよこはま北山田では一緒に働く仲間を募集中!PTさん看護師さん気軽にお問い合わせください^^。

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