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書くことで呼吸ができる

四月、新年度、最終学年

心を走らせるには十分すぎる要素がてんこ盛りの今を生きている。

大体いつも、年明けの一月と、年度はじめの四月は、ただでさえ心が逸る。

それはいい意味だといろんなことを思いつき、挑戦するきっかけになるのだが、反対に、やることを増やし、後々の自分の首を絞めることでもある。

そして大体、夏が終わるとどこかしら疲れていて、秋には失速し、冬には冬眠に入る。

そんなことをここ数年、繰り返している。

ボレロのように静かに始まり、だんだんと盛り上がるようなペース配分でもいいと思うのだけど、今はまだ、出来ていない。

自分の基本スタンスは、後の先なのだと思う。
何かしらやるべきこと、やったら面白いことは常に外側からやってきて、流れの要請に応えるように動き始める。
「頼まれごとは試されごと」とはよく言ったものである。

別に試されるのはいいのだが、タイミングによっては重複し、試されすぎる時が、割とある。

断るなり逃げるなりすればいいのにな、と思った時にはもう身は流れの真ん中にあり、二進も三進も行かない。もうやり切るしかない。

そういうところが、自分にはある。

そんな日々が続くと、タスクに心が支配され、一つ一つをこなすことだけが頭に残り、イライラして、怒りっぽくなったりする。

ただ、そんなちょっとした危機を乗り越えるごとに、ちょっとずつ容量が良くなったり、キャパシティが広がった自分に出会うことになるのだから、これも必要な試練なのかもしれない。


ただ、その渦中においても大事なことが一つある。


それはこうして、心の中を洗いざらい文章に書き出して整理することだ。

本日この文章は、読んで面白いとか、気づきがあるというより、自分自身の独り言として、聞いてもらうためだけに書いている。

何かを表現したい、とか、何かを伝えたい、などのメッセージ性は特になく、「最近こんなこと考えてますよ。」というのを置いていく感じだ。

だから、そんな文章をここまで読んでいただけていることには感謝しかない。

書くことは、タイトルにも書いたように心が呼吸をすることで、自分の状態を知るための行為だ。

心が荒れれば、文章が荒れる。

自分が満たされていなければ、人を傷つけるような内容になる。

言葉を取り出してみてやっと、そんな自分に気づくのだ。

だから、忙しかったり、何かに追われたりする中で、監視されているような気持ちがすると、文章を書いてはいけないような気がして、更新が途絶えるのだが、その時間が一番、苦しい。

自分にとっては、日々の生活が本体ではあるが、それはその過程で考えたこと、思い悩んだこと、気がついたことを文章にして産み落とすまでがセットだ。

それはきっと、食事と排泄くらい、分かち難い関係性にある。

文章のイメージは、いつも突然降ってくる。
慌ててメモに書き残しても、後からそれを辿った時には、その時の自分はなぞれない。

そんな一瞬を掴んで、ちゃんと形にできる頻度が増えるなら、それは呼吸のリズムが整っているということになるのだろう。

ああ、今日もこうして呼吸ができた。

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