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『水晶体に映る記憶』感想

この本の著者の、小林ひかりさんに出会ったのは、2018年の3月ごろだったと記憶している。

僕はちょうど大学を卒業したてで、人生最後の春休みを、持て余しているところだった。

そんな時、大学3年の終わり頃から、5年くらいまでちょくちょく関わっていた医療系インカレサークルの年度末のイベントがあって、そこに参加した時のことだった。

当時のひかりさんは長い黒髪の看護学生で、真面目でおとなしい人という印象だった。
次年度からそのサークルのある部門で、責任者を務めることになっているとのことで、軽く話をしたのを覚えている。

ひかりさんは医療とアートの関係性について興味があると聞いたので、自分も色々教えてもらおうと、時々連絡を取っていた。

いや、この記事を書くためにLINEを見返したら、思った以上の頻度で連絡を取っていた。
お互い、気になった記事、読んで良かった本の一節、面白そうなイベントの情報など、思いついたものを緩やかにシェアする関係性だった。

当時僕は研修医で、6年間で身についた理論武装を武器に携えて社会に出たものの、何をやってもあまりうまくいかず、喘ぎながら日々を生きている中で、瑞々しい感性を持った、未来ある若者とのメッセージ交換は、自分の感性にとっても、息継ぎをするような時間になっていた。

夢だったはずの医療現場での日々に、問いという鶴嘴を打ち付けながら、僕は自分が追い求めてきた理想と、方向性を再編集する必要に駆られていた。

同時に、その年の秋頃に出版されるセンジュ出版の『ハイツひなげし』という小説との出会いをきっかけに、僕の理論武装の鎧は少しずつ綻びていくことになる。

今思えば2018年は、僕にとっての変曲点みたいな年だったのだ。

そんな時に出会った若き友人の目を借りて世界の見方を教わっていく中で、僕は自分自身の感性を少しずつ思い出していくことになる。

大学時代の自分にも感性がなかったわけではない。師匠と仰ぐ歯科医師の先生の講演にはいつも涙していたし、自分の日本人としての根源みたいなものに興味を持っては明治維新の人物伝などに心揺さぶられた。

ただ、その方向性と強化は、理想を掲げた若者に投げかけられる、心ない現実的な一言に歯向かうために費やされていた。早い話が、大学生にもなって、僕の読書の興味と関心は、周囲の心ない大人に抵抗するために全振りされていたのだ。だから、当時出会った年上の人には、理論武装でガチガチとか、ギラギラしているという評をいただくことが多かった。多分生意気に映っていたことだろう。決して傷つくまいと、硬い殻の中に自分自身を押し込めていた。

しかし、それは自分のためだけではなく、どこかでひかりさんのような、遠慮気味にでも、心からやりたいことを、勇気を出して伝えてくれる人の味方をできるように、という思いもあった。新時代の芽は摘ませない。当時は特にそんな気持ちが強かった。

そんな中出会った友人が、5年経ち、著者になった。上に色々書いた割には、結果的に僕が何をしたわけでもない。時々連絡しては、友人の一人としてお互いの経験や興味をシェアする、細く長い付き合いになっていっただけだ。僕が年上として与えるものよりも、受け取るものの方が多かった。彼女の感性が、いつも僕を新しい世界に連れて行ってくれた。


その5年の間で、ひかりさんは、アメーバブログで自分の気持ちを言葉にしたり、医療とアートのイベントを開催したり、コロナ禍で塞ぎがちな世の中に、黄色のアートを呼びかけて誰かに寄り添ったり、自分のブランドを立ち上げて、可愛くて落ち着くキャンドルを届けたりしていた。

色々な活動をしてきたようでいて、根本のところは全然変わっていないようにも思う。何を行ったとしても、自分の表現を通して、いつも誰かのそばにいる人だ。この本も、自身の何気ない日常をエッセイとして綴りながら、至る所に、読者の心に寄り添うための窓が設置されている。

前回、伊丹の出版記念イベントで、ひかりさんは、この本を「飾らない文章で、過去の自分のために書いた」と言っていたが、その過去の自分がとっても具体的で、解像度が高いからこそ、同じような経験をする人に深く、しっかりと届く。
また、「これが答えです、ということは書かないようにした。」とも言っていた。
とっても、ひかりさんらしいなと思う。答えを込めなかった文章の一つ一つが、読み手に問いを投げかけてくる。

昔は、ブログの感性豊かな文章から、「絵筆で色を選ぶように言葉を選ぶ人」だなと感じていたが、今はパートナーであり、校正を担当した前田稜汰さんとの対話を通じて、感性の輝きはそのままに、今回の本ではより落ち着いて、読み手の心に溶け込むような文章になった。

この本が手に届いてから、3回読み直した。一つ一つの話ごとに、著者と語り合いたい気持ちになる。いい匂いのする街、春という季節の時間の早さ、自分をご機嫌にするための手段の数々、など自分が考えていたこと、気になっていたテーマが面白いくらいに散りばめられている。

僕が、もう一つの顔、書店「韋編三絶」として本を選ぶとき、なんとなく指標にしていることが一つある。それは、本として読んで面白く、新鮮な体験もありながら、読み手にたった一度でもいいので、自分の人生を省みる瞬間を届けてくれる本を選ぶことだ。

この本には、それがある。感性の豊かな人だな、繊細なんだろうな、と感じさせる色鮮やかな文章の中に、ふっと自分に問いかけてくれるような言葉が秘められている。著者の日常を覗き込んでいるようでいて、ふと覗き返されるような感覚になる。

先日、自分のことについて色々考えている中で、何の気なしに、「自分には今、これと言って積極的に生きる理由が見当たらない」ことに気づいた瞬間があった。さっさとこの世から居なくなりたいわけではないけれど、果たして自分に、これから生きる上での強いモチベーションがあったかなと、ふと揺らいでしまったのだ。

そんな時に読み返したこの本に、似たような感覚の話が載っていた。そんな感覚を持っていても、生きていてもいいのだと肯定された気持ちになって、僕はその時、本に救われる、ということを身をもって体験した。

日常は続く。生きていれば課題も続く。うまく行ったなと思えば、次の瞬間には転んだりする。そんな日々を送る中で、全身に知識と理論を武装して、「何があっても決して傷つくまい」と世界中が敵みたいな目をしていたあの日の自分から、ちゃんと失敗を味わい、傷つくことができる人間にまで武装解除を進めて来れたことを、この本によって再確認した。

人は変化する。感性も、理論も、5年も経てば考えていたことすらも忘れて別人になってしまうかもしれないけれど、そんな時でも、こうした本がそばにいてくれれば、いつだって思い出すことができる。

僕にとって『水晶体に映る記憶』とはそういう本だった。

この文章をここまで読んでくれたあなたが、この本のどの話に反応したのか、どういう感情を抱いたのか、いつか聞いてみたい。

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いよいよ今週末です。お待ちしております。

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