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追い風が吹く土地、総社

その土地の人達との出会いは、成長を加速する。


去る12/2日から3日まで、毎年恒例となった、岡山県総社市に遊びに行ってきた。

表向きは書店としての出張販売なのであるが、僕からするとそれはおまけに過ぎない。大切な人達に会い、一年で成長した姿を見せたいがために、本屋を続けている。もはや気分は里帰りである。


総社の皆さんとは、2020年にZoomを通じて出会い、実際に対面したのは2021年の10月9日だった。次の日は朝早く帰り、同級生の結婚式に馳せ参じたのだから、慌ただしい中での訪問だった。
そこで初めて、書店「韋編三絶」を名乗らせてもらってからはや三年。気づけば年に2回ずつ訪れているので、実は今回総社の地に降り立つのは6回目になっていた。

「自然体」を意識しながらも、過去二年はどこかしら「自分の価値を示さないと」とか「成長する余地を示さないと、自分など来年は必要としてくれないのでは?」という恐れが正直、心の中にあった気がする。

もちろん、杞憂だった。

今年は年頭から、自分なりにも盛大に失敗し転んで、それを晒し続けてきたので、もはや格好つけようにも全く格好がつかないことがわかっていたので、気持ちがとっても楽だった。

僕は書店を名乗りながら、どこか本を紹介することで、「完成された人」として見られたくない、という気持ちがある。

僕が思う完成された本屋とは、本代の計算とか梱包とか、ブックカバーをかける作業がうまくできることではない。それはこれから、必要な技術として、当然身につけていきたい。

僕が危惧するのはそこではなく、本を紹介することで、自分自身にはもう本で解決すべき悩みや課題が無いように見えてしまうのは嫌だな、と思うのだ。

えらいのは本であって、僕自身ではない。

数ヶ月前、ふと思うことがあってInstagramの韋編三絶のページの紹介文を変えた。

あなたと共に、足掻いて生きる実践型書店

韋編三絶

僕自身、もう30歳で、いい大人に片足突っ込んでるのだが、気持ちはまだまだ発展途上である。

周りの同年代と比べると、社会人経験も乏しく、出来ないことや気がつかないことの方が多い。

そんな自分が悩むたび、しがみつくように手に取るのが本であり、現在進行形で本に救われている。
いつまでも、本を読んで考えて、生活や仕事に工夫を試みる、実践者でいたいのだ。

この水鳥のバタ足のような、水面下の葛藤を隠して、綺麗な上辺だけ掬い上げて紹介する、なんてエレガントなことは自分には到底出来ないのだと、今年になってとうとう、諦めたのだ。

僕が本当に紹介すべき本たちは、自分が実際に読んで、言葉たちに生かされて、行間からエネルギーをもらって、そうやって共にその一年を歩んできた、戦友のような数冊で良いのだ。

ということが、やっとわかった。

本屋として生計を立てられないのが僕の欠点であり、本屋だけで生計を立てることを考えなくていいのが、僕の利点である。

趣味でやっている本屋は、僕にとってはもはや褒め言葉である。
趣味でやるからこそ、出会った人全員を救おうとしなくて済む。
生きるために、収入のために本を売ろうとしなくて済む。

そして、本を届けるためなら、他の本屋さんをいくらでも紹介できる。
趣味の商いの範疇で、好きな本、良いと思った本の全てを仕入れることは困難である。
本来、出版社さんと書店の取引は、取次という問屋さんを介して行われてきた。
しかし、僕のような個人で、店舗も持たない書店がその契約を結ぶのは難しい。

自然と、仕入れる本は個人取引をしてくれる出版社さんに限られる。
そうなると、従来の書店さんでしか買えない本が、沢山あるのだ。

だから、僕は本屋でありながら、自分で売ることにこだわることはやめにした。

僕がお薦めした本が、アマゾン以外の本屋さんから一冊売れれば勝ちなのである。

こちらの目的は、不況といわれる出版界に風を吹き込むことなのだから。

一方で、本屋として嬉しいのは、何冊も売れることではあるが、それだけではないとも思っている。

何人にも響く話題の本が自然に売れるよりも、
自分が選んだ本に、心の奥底から揺さぶられる人がいて欲しい。

せっかく本屋として、本を紹介する権利を得ているなら、失敗も成功も、自分の等身大の経験と体温を乗せて紹介することで、出会う人の中のたった数人で良いので、心の深いところを揺らしにいきたい。

これなら、同じ本を扱うお店が他にたくさんあっても、僕自身が届ける本には僕の物語という文脈が付随する。
そうして紹介した本が結果的に売れるのは、僕の書店「韋編三絶」からじゃなくても全然いいのだ。

本の紹介に「自分の言葉と経験」を乗せること。

それが自分なりに付加できる価値なのかもしれないと、今回の岡山で、本の紹介という名の、半分くらい自分の話をさせてもらって気がついた。

ありがたいことに、話が上手くなくても、皆さんがしっかりと耳を傾けてくれる。こんな素敵な場所、他にはないと思う。
だから、話が上手くない分全力で、カッコ悪い自分の話をしようと思う。
下手に飾ったり、隠したりするほうが失礼だと思うから。

話が上手ければ、そもそも文章にしたり、本を書いたりしないのだ。

子どもの頃から、わーっと何かしら言われて、言い返せなくって家に帰って、考え続けて生まれた反論の言葉が、いくつもある。

それくらい会話に鈍いから、文章に落とし込むのが自分の生きる術になった。

文章だって、言葉だって嘘をつく。こう書きながらも現在進行形で、僕はまだまだ格好つけてるかもしれない。いや、きっとそうだ。

だから本を読むことは、読んで思ったことを書くことは、自分をその都度一皮ずつめくっていくプロセスなんじゃないかと思う。
読むごとに嘘がつけなくなり、読むごとに素直になってしまう。それが本なのだ。

読んで、試して、ダメでも、上手くいっても、また次の課題がやってくる。
その繰り返しが愛おしいなと思う。何歳になっても素直に、正直になるという部分で成長していられる。もっと身軽な自分に出会える。


だからここ3年間で、今年が最も、自分が軽やかで、クリアになった感覚がある。

素敵な人たちが、そこで毎年、待っていてくれるから。

毎年会うごとに、素敵だな。まだまだかなわないな。と思わせてくれるかっこいい大人たちや、一緒になって成長していける、素敵な同年代の仲間たちがいるから。

昨年の岡山を経て、大いなる劣等感から始まった一年が、今年岡山に行ったことで、見事に晴れた。

晴れの国岡山は、訪れると心まで晴れるのだ。

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