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過去の日記 『Traces of diary 日記をたどる』

2016.6.29分がアップできていなかったのでその分を。まだ本シェルジュと関わっていた時期だったのかあ。それといまよりもっと写真について勉強しようと思っていたんだな。うやむやになってしまっているけども、またどこかで勉強したいとは思っている。

2016.6.29

前日に妻の愚痴を聞いていたら1時過ぎ。朝は寝過ぎてしまった。午前中にルーチン作業をこなして午後からホンシェルジュで出版したアイドル×マンガの雑誌『ホンシェルジュ』の営業に。東京カレンダーさんの増刊号として出ているから雑誌コーナーに置かれているのをコミック売り場にも置かせていただけないかと話して周る。先週からやっているけども実は書店営業ははじめてなので電話のアポ取りでめっちゃ緊張した。してみたら書店員の皆様の対応が丁寧で救われると同時に頭が下がる思い。アドバイスいただいたKさんとOさん、本当にありがとうございます。

で、夜からは原宿のVACANTで写真家の日常を撮影したドキュメンタリー映画『Traces of diary 日記をたどる』を観に行った。

本屋探訪記の写真をもっと上手く撮れないかというところから興味を持った写真であるが、いろいろと読んだり観たりしているうちに好きになってしまった。とはいえまだまだ勉強中で、だから自分の好きな森山大道も出演していると知って気付いたら予約していたというのが映画を観た理由である。構成とか編集とかそういったことは気にしないでその場を撮ることがすべてだ、みたいなことを森山大道が言っていて、荒木経惟も同じようなことを言っていて思い出したことがある。

『無意識の整え方』で僧侶が言っていた「悟りは無なのだけれども悟ったら無なんだから悟っていると言えない。でも悟ってる」(超訳)みたいな内容のことだ。これはつまり、フェーズの話であってフェーズ1の人がフェーズ2に移った瞬間に違う感覚違う考え方になるからフェーズ1の言葉で2のことは説明できないってことだと思う。きっとフェーズ1が言葉の世界で、フェーズ2が言葉じゃ表しきれない世界のことなのかと。

さて、話は戻るが、きっと森山大道や荒木経惟は理屈で考える前に撮影しているその瞬間そのものになっているのであって構成とか編集とかいうレベルの話ではないのかなあと思うのだ。もちろん知識とか技術とかが当然のようにあってこそのことだとは思うけども。

これは併設されていたショップで買った森山大道の『terayama』。内容も装丁も最高なので買ってしまった。布装を持ったときのふんわり感が好きなんだよなあ。


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