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レティシア書房店長日誌

マーセル・セロー・村上春樹訳「極北」

 「毎日、何挺かの銃をベルトに差し、私はこのうらぶれた街の巡回に出かける。 ずいぶん長いあいだ同じことを続けているので、身体がすっかりそれに馴れてしまった。寒冷な空気の中で、せっせとバケツを運び続けてきた手と同じように。」
という文章で始まる「極北」(中央公論社/古書1400円)は、一人の女性の長い過酷な人生を描いた長編小説です。ヒロインの名前はメイクピース。

 荒廃して文明を失った世界。ほとんどの人間は消滅し、各地に少ない人数で集落や砦を作って生活しています。彼女の暮らしていた町も、生き残っているのは彼女のみ。なぜそうなったかは描かれていませんが、「ゾーン」と呼ばれる地帯では放射能汚染が激しいので、原発もしくは核戦争が原因として考えられます。どっちにしても、これから起こる可能性のある世界です。
 極北という環境を生きるメイクピースが体験する地獄の世界。そこで描かれるのは剥きだしの人間性です。
 「もし私がそのカリブー飼いの立場に立たされたなら、凍死する前に、盗んだ銃に込められた弾丸の一発を頭に撃ち込んだだろう。凍死というのはおそろしく酷い死に方だから。その夜は氷点下四十度、彼が死ぬまでにおよそ二時間かかった。 凍死するとき、最後に感じるのは、身体が焼けつく感覚だ。心臓は最後の熱い血液を皮膚に向けて送り出すが、その一方で内臓はすでに機能を終えている。だから肝臓が凍りかけているというのに、人は暑さのあまりシャツを脱ぎ捨てようとするのだ」
 「酷寒」という言葉がヒシヒシと身体に伝わってくる世界、ディテールがよく描かれていて素晴らしい。淡々と、しかも絶えることなく絶望がやってきて、また、ふと希望の光が遠くに光っているのが、かすかに見える。物語はその反復なのにどんどん読みたくなってくる。主人公のドライで何事にも屈しないタフネスを味方にして、私たちもこの荒野を進んでいこうと思ってしまいます。
 暗澹たる世界の描写が、静謐でどこか穏やかな印象があるのは、絶滅していく人間への祈りが込められているのかもしれません。終末世界という極限状況を舞台にして色々なテーマを盛り込んでいて、考えさせられると同時に、ダイナミックに展開する物語の流れに飲み込まれる心地よさが、最大の魅力でしょう。
 ラストになって、なぜこの物語がメイクピースの一人称で描かれていたのが判明するのですが、それはとても感動的でした。これ、映画化したらきっといい作品になると思いますね。村上春樹が翻訳したことに驚きましたが、制御の効いた文章が見事でした。

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