非常に刺激的で暑い日だった。
憲法と聞いて右左、じぶんには関係ない、と感じるひともいるかもしれない。
日本という国に属してしまっているひとたちの生活は、間接的に民主制度で、政治や行政と関わっている。
直接民主を唱えるルソー的にはアウトなわけだが、一応民主制を唱える日本。
憲法とは、社会契約そのものである──そのようなことを再実感させられる楾大樹さんの憲法についての講談を拝聴してきた。
普段意識することのない憲法──GHQの草案から作られたのは事実だが、それを咀嚼し憲法の成立に力を尽くした「憲法大臣」金森徳次郎らの尽力の上に戦後作られた。
憲法は誰のためにあるか?
国家権力が民衆を押さえつけていた明治憲法や軍国主義の歴史。
弁護士の楾大樹さんは権力者たちを百獣の王ライオンに、憲法を檻に喩える。ライオンを雇うのは檻がなければ契約にならない。
檻は壊したりゆるめたり、ライオンがすることなく、でしっかりと囲むためのものである。
楾大樹さんの講談を拝聴し改めて、9条の拡大解釈をさせてはならない、また、臨時国会の召集、実施の期限がなされていない53条など改正すべき点もあることを再認識させられた。
日本は間接民主制だが、普段、学校教育や家庭でこうした政治や宗教のイデオロギーを超えて、憲法の話を真剣に子どもたちとしているだろうか?
政治的な話≒マナー違反とまで取られかねない風潮はどのようにして生まれたのか。
講談を拝聴していて、親が知らなくてどうして子どもに話せるかという点は前川喜平さんと共通しているように思えた。
政治や宗教というイデオロギーの垣根を超えて国民主権のデモクラシーに希望を持ちたい。
憲法は改正すべき点もあるが、権力側に都合の良いよう密室会議で抜け穴をくぐらせるべきでない。
社会契約としての憲法──いま、憲法という、権力を握ったものたちを縛る檻は緩めようとするどころか壊しかけてもいる。
権力者側が守るべき憲法を国民に守らせようと変更しようとしていないか?
基本的人権は生まれたときからある、天賦人権のはずであり、現行憲法第11条に明記されている。その人権の「与へられる」という部分の削除まで盛り込んだ明治憲法の復活にすら見えてくる2012年の自民党改憲草案。
じぶんのこととして、憲法についてしっかりと学び直し、目を光らせておかねばならない。
憲法違反を取り締まるのは、我々、国民である。
子どもたちに、政治、経済、社会の公共性について関心を持つ教育を。
おとなは、無関心を装うべきでない。