シノワズリ柄のブックカバーと栞
外は時々、霧雨のように細かい雨が降る。
数ヶ月ぶりに裏山に行った。山の向こうは海が広がる。小さな木立で雨粒を見ていると、親しみ深い柔らかい土たちが少し心が硬くなった僕に「おかえり」と優しく言ってくれているように思えてくる。
鳥たちの声に混じって、静かに降る雨。木々の枝のうねりに落ちるいく筋もの細かい雨はシノワズリの柄のようだ。
蘇州で買い求めた中国茶はとても美しいシノワズリ柄の茶筒だった。包装されていた箱も美しかった。裏山から戻り、簡易的なブックカバーと栞にした。
複雑に絡み合いながら弧を描くシノワズリの青の線──文化や民族が異なれば、言葉というのは、風習や習慣、考え方そのものの手続きの違いへと繋がり相互理解のひとつの乗り越えないといけない山間の谷や川、鬱蒼と生い茂る森のようにもなる──はじめはくっきりとした境界線のように見える空間そのものを区切るかのような青の線。
手探りでそうしたものを分け入って、ある時、振り返ると見えてくる景色がそれまで見ていた複雑なものと違い、境界が何処か遠くへ行くこともあるかもしれない。
日本という小さな愛らしい島国に、大陸や別の島をルーツに持つ僕ら家族は住んでいる。ときどき日本語で話していると「日本語お上手ですね」「どちらからいらしたんですか」などなどと言われる。
それはまだ良い方で、かなり稀に「国帰れ」と言われたりもする。
人種的な話題は否応なく敏感になる。
僕自身についてなら慣れてしまっていて何とも思わない。
しかし、家族については、かなり敏感になり、心に緊張感や違和感が走るし、感情的にもなる。
その緊張感や違和感は、これは独りよがりな感覚かもしれないが、ひとつの偏った側面だけを見て報道しているニュースや強い言葉や瞬間的に印象を残す強い言葉遣い──何処となく、無意識を装う悪意、差別を区別と言い換えることと通じるものがあるかもしれない。
僕の大好きなアントニオ・タブッキの『遠い水平線』。
訳者の須賀敦子さんが『葦の中の声』という一篇のエッセイで母語を外から見ることについて触れられている。
それまで閉じこめていた「日本語だけ」の世界から解き放つことが自国の言葉を外から見る体験の契機になる。
言葉でひとは考える。
言葉が異なれば考えるステップも着想や着眼点も変わる。
異なる言葉、あるいは文化圏、にある程度、身を置くと母語の持つ響きや気づかなかった奥底に眠る意味づけに、ハッとさせられることがあったりもする。
言葉、文化の違いを持つひとたち同士のコミュニケーションでは、はじめ、誤解をお互い生むかもしれない。
けれども、誤解を紐解くことに互いに少し歩み寄ると、素敵な理解へと繋がる可能性も秘めている。
国が違えども、誤解を出発点に相手を理解していくこともできる。
どこまでも水平な視線──スピーノ、あるいはスピノーザのような──で風景を見ていたい。
どこにでも連れて行く僕の『遠い水平線』。
スピーノたちは僕とともに飛行機で国境を超えて大陸を一緒に感じただろうか。
昨日、そのようなことを少し考えながら、『遠い水平線』を読み返していた。
そうして、2冊あるうちの1冊にカバーを付けてあげたくなった。
文化や民族が素敵に混じり合うものをどうしてだか拙いカバーにした紙袋の絵柄に感じる。
厚みのある紙だったため普段使いのブックカバーには難しいが飾る程度や遠くへ連れ出すときの保護のためならいいだろう。
窓の外はもう雨は止んで、どことなくぼんやりとくぐもった僕の心のような色が広がる。
クレーの淡いキューブの重なりあった絵のような空だ──言葉足らずな僕と物憂げな空模様。
言葉は難しい。そのときの発するひとのひととなりの片鱗を如実に表すこともある。
傲慢や無意識を装うナイフになる時もあれば、励ましや優しさを纏う水や風になる時もある。
『葦の中の声』で《さよなら》の日本語を深く胸にしまう須賀敦子さん。今の僕は《ただいま》《おかえり》という日本語を胸にしまう。
鎌倉──家族の日常がある土は僕に日本語でおかえりを言う。
ここの土は《おかえり》という日本語を持つ。
だから、僕は《ただいま》と言う。
カバーはシノワズリな柄の布地で作り直してみたい。
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