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『Book Cover』あとがきの向こう側、思惟的なあとがき

憂う───また、ひとひらの優しい花びらがアスファルトに落ちた。

もう何度目の憂いだろうか。

桜の花びら一枚一枚に魂が宿っていたとしたら、彼あるいは彼女たちは風に舞い土やコンクリートの上に落ちた後、何を考えるのだろうか。

何も考えず、ただひたすらにありのままを全うするのだろうか。

何故か僕は気になった。

しかし、気にしていても何ら意味のないことでもある。

蕾がふくらみ、やがて花開き、枝に掴まっている力を見失って、落ちていく。

ホモサピエンスの目線から見れば、ただ、それだけのことである。

もし、僕が花びらだったら、事の重大さは変わる。
受粉して、僕が生まれて、大きくなり、開花していく隣の花びらたちと成長し、雨風に打たれながらも陽の光を希求し、やがて年老いて、黄ばんで枯れて、落ちていく。
かつて美しいと言われたことを心の片隅に置いて。

落ちてしまったら、ぬかるんだ土であれ、硬く暑いアスファルトであれ、他の有機体に蹴散らされて見向きもされない。

風の中をただようとき、渾身の祈りを他のまだひらいたばかりの花びらたちに捧げている。

出版に漕ぎつけた日の朝、僕はそのようなことを妄想しながら近くの海に向かって流れる川の袂にいつもあったはずの段ボールの塊を探した。
段ボールは跡形もなく綺麗に片付けられて青いビニールシートもなくなっていた。
こちら側から橋のあちら側があのようになっていたとは、それまで気が付かなかった。
あの老人はどうしたのだろうか。
死んだのか、どこかに移動しただけなのか───移動させられたのか。
死ぬことも移動のひとつである。
他者による理不尽な結果の死は移動させられた、になるだろうし、寿命の全うならば移動するまで猶予期間が与えられる可能性も極めて少ないがあるかもしれない。
いつ死がやってくるか?
そうしたことは偶発的事象の連続性のなかで生きるしかない我々には判断出来ないのが現状かもしれない。
遠い将来、それらは予測可能になり得るのかもしれないが。

花びらは枝から追放されたのではない。
離脱したのだ。
あの老人は追放された側なのか?
それとも、離脱した側なのか?

僕はどうしても気になった。
属していたものから、他者によって追放されたのか、あるいは、自らの意志で離脱したか。



主人公の大学生、中山マリの母、中山みちは追放され、離脱するために警察に保護を求めた。

本書のケースは極端かもしれない。
しかし、限られた空間の中で、ある日を境に空間の使用について限定されていくのがコロナ禍でのテレワークとも言える。
空間の「侵略」と捉えるか「親密さの増幅への境界の曖昧性を増すこと」と捉えるか。
そうした中で普段から共存していた人間同士がどのような関係性であったか露呈しやすいのも特徴なのではないだろうか?

また、共同体、あるいは土地、領土からの追放と離脱は、成長過程においても似たようなことが起きる。

いずれにしても、パンデミック以降、共存、寛容、個の尊重、自立していく力など相互に総合的な行動が試される局面でもある。

罪と罰、どちらからも逃れられない人間の業。

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