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イタリアン・バターライスと坦々スープ

午前、ときおり風が海からやってくる中、娘(二歳九ヶ月)のリサ少尉と公園へ行き、たっぷりと汗をかいた。ようやく、夏から秋へと季節が移ろい始めたのだろうか。風は、秋を運びたいのにもどかしくしているような、そんなそよぎ方だ。

妻のシモーヌ大佐が鶏のひき肉、ズッキーニ、ナス、トマトとモッツァレラのバターライスを作ってくれているあいだ、娘とふたりでシャワーを浴びた。さっぱりとした夫と娘をよそ目に、汗だくになって、何やら一生懸命にオリジナル──玉ねぎ、セロリ、パプリカ、にんじんとベーコンとコンソメキューブ──スープをああでもない、こうでもないと味見しつつ味を調整する妻。
「最近、味覚がおかしいのよね、私」
「味がしないの?」と僕は彼女がコロナになったのかと心配になって尋ねた。
すると妻は「味がしないっていうわけでもないし、コロナではないと思うのよ。スパイスつまり香辛料のセレクトがおかしいのよね」と不思議なことを言いながら、スープにガーリックのすりおろしチューブから練り物をたっぷりと出して、さらにラー油を数滴滴らした。
「ラー油ってさ、刺激が強すぎるから、リサ少尉に良くないよ。ローリエとかクローブとか使えばいいのに」と僕が言うと
「だから、私、味覚がおかしいのよ。おかしいというか、これはセンスが崩れた証拠かもしれないわ。私だって、ローリエだとかクローブの方がいいと思うもの──少し前の私なら、ね」
そう返しながら、彼女は冷蔵庫の野菜室からチンゲン菜を取り出して、何枚かをスープの中にいれ、すり胡麻と味噌をさらに追加した。
「シモーヌちゃん……この香り、悪くないよ」
「そう?」
「うん、悪くない」
「本当にそう思う?」
「うん、すごいよ、シモーヌちゃん、別に味覚がおかしいんじゃなくてこれって……坦々だよ」

ここ最近、彼女は職場でいつも坦々スープを飲んでいる、と言っていた。おそらく、気に入ったのだろう。でもどこか引っ掛かるものがあった──「センスが崩れた証拠」とはどういうことなのだろうか、と。

味覚だけではない。音楽、美術、文芸、服やアクセサリー、髪型、メイク、風景、場所、時間、思考の方向性、友人関係──それら《私》を取り巻くあらゆるものの好みの感性としてのセンサー。それがセンスかもしれない。

「センスが崩れた証拠」としての坦々スープ?
センサーはラー油の刺激とマイルドな胡麻味噌の志向性を指し示しているようだが、それが崩れるということになるのだろうか?
いや、それが「崩れる」こと、センスの転倒になるかどうかこそが、彼女のセンサーの特徴であり、それは僕には知り得ない彼女の中の《私》の変化なのかもしれないのだ。

さいわいにも、僕の味覚センサーに彼女のスープは悪くなかったし、少尉もわりと気に入ったようだ。
話は逸れるが、少尉はガーリック大好き少女である。それはそれで困ってもいる。刺激物ばかりを食事に出しているわけではないのに、彼女は二歳にして、ガーリックが大好物である。わさびは苦手なようだが……。

話を元に戻そう。センスは幼少期から培われ、他者やさまざまな体験を通してさらに膨らんでいき、だんだんと方向づけされていくのだろうか。
例えば、僕の場合。
フィリピン・マニラやスペイン・バルセロナで何を培ったか?と言えばおおらかさと賑やかさと情熱と郷愁、ローマ・カトリック教会。思春期の頃、村上春樹さんや江國香織さんたちといった大御所的な方々の本を好きになったが、パトリック・モディアノさんやアントニオ・タブッキさんらに出会って、しっくりと来た。詩で言えば、ランボーのほとばしるような情熱、リルケの思惟的な詩や散文にペソアの冷たい郷愁と決してバイアスのかからない多視点からの言葉たち。そして、須賀敦子さん……。
よくよく考えてみると、僕は多言語話者であり、彼らもそうである。

郷愁──このエッセンスのなんと懐かしく親しみ深いことか。

そして、センスが異なるひとたちを通して、僕のセンスがより一層くっきりと僕の中で浮かび上がらされる。
例えば、僕、大佐、少尉。各々に異なるセンスを兼ね備えている。
あまりにもかけ離れたセンスだと「センスがない」とお互い思うのかもしれない。けれども家族とはそこまで離れていないだろう。

センスの有無は、必ずしも否定的ではないのだが、ひとそれぞれ、好みがあるから、第三者にセンスの有無を言われたところで、だからなんだ?となるかもしれない。
また、センスの有無を感じるのはリズム感に依存もするかもしれない。
それぞれが持つリズム感と帆走する遠くのヨットのように、センスがそこに在るだろう。

少なくとも、大佐は彼女の同僚から「坦々」によって彼女のセンスが転倒するという形而上学的事件にも匹敵するほどのことがあったのかもしれない。

連休初日のランチ・メニュー
イタリアン・バターライスと坦々スープ

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