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とりとめのないこと2022/11/21 分散から構築、再解体から再構築

何かの契機で思索し始めるとき、同時に過去の偉人たちの知見を調べたり、現状最先端とされる文献を当たったりする。

その際、いくつかの自分なりのテーマに従って収集するのだけれど、その上にある大きないくつかのテーマを必ず意識しているかもしれない。

例えば、最新の耐震設計法の開発に関するものが直近であるとしたら、そのさらに上には、気候変動への適応、さらに上には気候変動下での大規模災害への適応などがテーマになり得るだろう。

思索し始める時の分散した状態をひとまとまりに頭の中でパッケージングしているときが一番なぜか楽しい。

こうしたパッケージをいくつかの類似性ごとに整理して頭の中の本棚に見出しをつけて格納しておく。

すると、他の思索をしている時に、いつかのパッケージを思い出し、芋づる式に繋がっていく。

ひとの脳内では常にこの繰り返しが数秒もかからずに無意識的に行われ、そのわずか数パーセントの時間で自由意思が働く。

そうして物事と物事を意思決定して構築していくと思うのだが、無意識というのはほぼ過去からのパターン認識に依拠するのだろうか。

そうだとしたら、パッケージとパッケージの連結の際の数パーセントの自由意思というのが、新規に得た情報からインスパイアされたものでしかなく、そこにしか差異がないとしたら、客観的に自身の頭で批判するとき──解体──そのわずかな差異を削除してしまう可能性もあるかもしれない。そのまま再構築したら結局は何ら新しい発展がない。
自己批判の際、実はこの部分を丁寧に扱わないといけない。
丁寧に扱うことが習慣化されていたらそうしたものはどこか別の場所に無自覚にインデックスしてもいるかもしれない。

中ぐらいの高さに位置する目的を見失っているとパッケージの連結がなされない。
そのさらに上の目的が見えてる時は一気に連結部分が増える。

その為にも他者の批判は価値あるものは実に有用だが、その他に気をとらわれていると無意識へと帰着するだけになりかねない。

無意識に深淵があるのではなくて自由意思にこそ深淵がある気がしてならない。

これまでは無意識の領域がブラックボックス的に思えていたけれど、実際にはブラックボックスなどではなく、連結されたパッケージ群の一部に過ぎないかもしれない。

自由意思にあたる何らかの活動電位の様相が操作できるのは本体である自己だが、ある一定の外部情報がランダムノイズ的に干渉してくると、様相が代わり、その瞬間から贋の自由意思になってしまうかもしれない。

とりとめもなく、どうでもよいことを考えていた。

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