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扁桃体アブレーション

この物語はフィクションです

扁桃体で反応が起こり心拍変動がおかしくなる。ヒトの情動システムは複雑なのだ。
客観的文体から虚無感と淋しさが浮遊してどこかに消えた。
淋しいという感情に身を置き続けるとろくなことがない。
エンジン空回りするくらいなら付け替えてロケットで成層圏を脱出するのも情熱。

理由なく寂しいとか悲しいとか楽しいとか嬉しいとかで泣くのも情熱だろう。

いまだに世界はキチガイじみている。

鉄格子のはまった窓の外はキチガイじみていた。
朝、担当看護師がやってきてカテーテルをチェックする。僕の顔を一瞥して、目が合う。
看護師は目を逸らし、僕なんかを見るわけがない、とでも言いたげに真っ直ぐにドアの方向に向き直り、スタスタと扉の向こう側へと消えていく。

昼近くになって違う看護師がやってくる。
拘束帯が外され、食事の摂れるロビーへと連れて行かれる。
一言も僕は喋らない。
僕が黙って病院の味気ない食事を機械的に口へ運んでは飲み込み、を繰り返していると、髪の長いつるつるした少し太った薫ちゃんが隣にスケッチブックと鉛筆を持って座った。
薫ちゃんとの最初の出会いを僕は薫ちゃんが向こう側へ行った後もこうして僕の中で昨日のことのように思い出すことができる。
僕の病名は統合失調症だった。
突然、頭の中で声が聞こえてきたりして、僕は黙らせるために戦った。
それは幻聴でしかなく、頭の病気のため、症状が緩和されるまで僕が声に抗わない──暴れないように腕と足と胴体に拘束帯をつけられていた。
段々と薬が効き、大人しくなったため、昼と夕方の食事だけ、他の患者さんたちと一緒にロビーで食べることを許された。
薫ちゃんは僕の名前をまず聞いてきた。
僕は無視していたと思う。
薫ちゃんは勝手に自己紹介し始めた。
カオルンと呼んで欲しいこと、自分が思春期病棟にやってきた理由、喘息のこと、絵を描くこと、好きなバンドのこと。
僕のネームプレートを見て、薫ちゃんは僕の名前を知った。
僕が食べ終わる頃、薫ちゃんが僕の顔を毎日スケッチさせて欲しいと言った。
なぜか僕は頷き、了承した。

僕は17歳、薫ちゃんは20歳だった。

僕のことを薫ちゃんは無理矢理喋らせようとはしなかった。
勝手に自分の描く僕の顔のスケッチを近づけて眺めたり、遠くから眺めたり、また僕の顔を覗き込んでバランスを調べたりしながら、スケッチのことだけを彼女は話続けた。

何週間かして、気づけば僕と彼女は他愛のないどこにでもいる少年少女から大人になりかけのふたりがよくする会話をするようになっていた。

僕の頭の中ではあまりもう誰も話しかけてこなくなってもいた。

僕が先に退院して、しばらくしてから薫ちゃんが退院した。

僕と薫ちゃんはたまにふたりで薫ちゃんの車でドライブしたり、三宮で待ち合わせて映画を観たりした。
僕は恋ともいえない恋に落ちていたのだろう。
薫ちゃんがどうだったのかは知らない。
時々、車の中で突然薫ちゃんは泣くことがあった。ふたりで抱き合って泣いた。
僕がなぜ泣かないといけないのかわからない。
喘息持ちなのに薫ちゃんはヘビースモーカーだった。
僕には付き合っていた彼女がいたから薫ちゃんと何かをするだとかそういうことはなかった。
薫ちゃんは僕にとって、戦友だった。

僕は薫ちゃんに夫や子どもがいることを長い間知らなかった。

ある日、いつものようにドライブに行こうと誘われた時、後部座席にチャイルドシートが付いていて、そこに一歳前後の男の子がにこにこしていた。

「今日は旦那が遅いからソラも連れてきたんだ」

そう言うと薫ちゃんはお母さんの横顔になっていた。
僕は少し驚いたけれど、特にそれで薫ちゃんへの気持ちが変わることはなかった。

しばらくして、僕が19歳のとき、真夜中に携帯が鳴った。僕は肉体労働であまりにも疲れ果てていて起きたくなかった。
何度も何度も鳴った。

翌朝、薫ちゃんからの不在通知だと知り、僕はかけ直した。
薫ちゃんは出なかった。
仕事へ行き、帰る頃には薫ちゃんからの電話のことを忘れていた。

1週間くらいして思い出したかのように僕はまた連絡してみた。
やはり出なかった。

1ヶ月経ち、僕は薫ちゃんがあの日の明け方、天に向けて墜落し、蝶々になって飛んだことを知った。

扁桃体で反応が起こり心拍変動がおかしくなる。ヒトの情動システムは複雑なのだ。

僕は幸い薬の効果のせいか、その事を聞いてもそれほどおかしくなることはなかった。

それでも、もしも僕が電話に出たとして。
何を僕に話してくれただろう、と思う。
僕が電話に出たとして。
彼女は蝶々みたいに飛ぶのを諦めただろうか。

薫ちゃんと話せないのは寂しい。
理由もなく辛くなった時に言葉にならない言葉を話せたひと。
トラックの中で薫ちゃんの好きだった古いバンドの曲を聴くと胸が苦しいしもう28なのに涙が止まらなくて苦しい。

ひとの心はすごく複雑でナイーブで壊れやすい。
寂しいとき、辛いとき、薫ちゃんとよく泣いた。

大人になると、そうした複雑な感情をひとまとめにして、見ないふりをして、強がる。
都合よくひとの心を遊んで踏みつけてお互い綺麗な言葉の無味乾燥な虚無を綺麗な世界に見せかける。
そうしないとキチガイだと思われかねない。
だけど本当は、この世界には、キチガイしかいない。

僕がシンプルな情熱を読んでいて腹が立った理由の一つだ。

情熱そのものはおそらく詩か音楽か絵ならかろうじてほんの僅かに表現できるかもしれない。

あとは記憶の余白か休符に、実体を残すこともある。

この物語はフィクションです

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