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とりとめのないこと2023/01/19 鴎外先生一覧

朝市で買ったごろごろとしたサザエを四つほど冷凍庫に入れていたのを、今日、思い出した。
晴れたり、曇ったりする日だ。
午後3時に一旦、仕事の区切りをつけて、祖父のいる逗子にサザエを届けに行った。

祖父は逗子の家に年がら年中いるわけではなく、鎌倉と行ったり来たりしている。

蔵書がいよいよ家の中で管理しきれなくなり、ある日、「会社のセミナー・ハウス」と称して社員で集まるにも住み着くにも狭い家を建てた。本を管理するだけの場所である。

草木も生い茂り、建物の中はややがらんとして中二階がある。晴れた日にその庭でバーベキューをすることもあった。僕ら兄弟はバーベキューとそこでのかくれんぼ目当てで、次はいつ本の家に連れて行ってもらえるのだろうかと夏になると楽しみにしていた。

サザエを一瞥すると祖父は僕の出張のことや春からのことを色々と聞いてきた。

霧の濃い朝の蘇州の運河のこと、上海の空が想像していたよりも綺麗だったこと、クライアントのこと、製材の生産ラインのことなど色々と話していた。帰りは大連からの飛行機で戻ってきたことを話すと、唐突にハルビンを見てきたか?と聞いてきた。

ハルビンは曽祖父が一時期滞在していた土地だ。
治安維持と称して関東陸軍が満州や中国にいた頃、曽祖父は中国のさまざまな場所に騎兵連隊として任務に就いた。

ハルビン中心に大連へ行くこともあれば、上海まで行かされることもあったようだ。

大連からでもハルビンは遠く、高速鉄道で四時間近くかかる。

曽祖父はパルチザン的な土着のひとびととの交戦で何度か負傷している。左右の指は二本ずつ吹き飛ばされたから両手の薬指と小指がなかった。
生命に関わる怪我ではなかったため、現地で手当され、ずっと勤務していた。
しかし、とうとうハルビンで腹を撃たれて本国、久留米病院まで運ばれ、東京でその後陸軍の他の任務に回された。

この経緯を曽祖父が祖父に詳しく話したのは、前も書いたと思うけれど、戦後50年以上経ってからである。僕らひ孫たちと祖父は一緒に毎年恒例の年末年始の集まりで、何度も聞かされた。終戦記念日にはなぜか話をすることはあまりなかった。

戦争の話を祖父はほとんど曽祖父から聞かなかった代わりに、森鴎外の本をよく読まされたり、聞かされたりした。

とくに、山椒太夫は何度も何度も聞かされたようだ。姉弟愛と母の子どもたちへの愛の物語だ。

祖父は自分の息子たちにも、山椒太夫をよく聞かせた。

父は僕らに山椒太夫を眠るときによく話してくれた。

どんなことがあっても、兄弟とお母さんを大事にするんだよ。

よく、父はお話の結びにそう言っていた。

僕ら兄弟でその後、本を読むようになったのは僕だけで、父が読書しているのを見たことがない。

祖父にとっても、僕にとっても、おそらく、お互いに僕らは本の話題をできる貴重な存在なのだと思う。

森鴎外の好きだった曽祖父は、祖父が旧西ドイツに留学するとき、『鴎外先生一覧』というメモのような走り書きを渡してよこしたらしい。
森鴎外の歩いたドイツの地名や本のタイトルがそこに書き込まれており、「できるだけ、ここを見ておくように」と言われた。

ベルリン─舞姫
ドレスデン─文づかい
ミュンヘン─うたかたの記

この三箇所だけは絶対に見て回ること

そう走り書きの最後に書いてあったのだが、祖父はどこも見ることなしに、ハイデルベルグに二年くらい滞在した。

祖父の留学時代の旧西ドイツ

鴎外のドイツ三部作に出てくる街を見て回るよりも祖父はハイデルベルグの小さな下宿先である女の子と会っていたり、友人たちと筋トレしていた方が百倍有意義だったに違いない。

鴎外先生一覧表のメモは探せばどこかにあるらしい。

ハルビンは大連からだいぶ遠いから行かなかったことを伝えると、祖父は少し残念がっていた。

祖父がハイデルベルグの下宿先で落ち合っていた女の子──祖母が散歩から帰ってきて、僕がサザエを持ってきたと言うと、ここで食べていくかどうかを尋ねてきた。

僕は、すぐ戻ってまた仕事の続きをしないといけないから、と断り、逗子をあとにした。

夕方、須賀敦子さんの全集を一篇読むために開くと、『父の鴎外』というタイトルからだった。

何とも不思議な縁だ。

鴎外の訳したアンデルセンの『即興詩人』には、イタリア各地が出てくる。
斎藤茂吉などが戦前に、鴎外の訳した流麗なこの本を片手にイタリアを見て回った。

須賀さんはお父様から手紙で、『即興詩人』に出てくる場所をできるだけ訪れるよう言われたようだ。

もしかしたら、この時代の鴎外好きたちは、皆、鴎外の書き残した場所を訪れることを夢見たのかもしれない。

そんなとりとめのないことを考え、これを書きながら、本の家から拝借してきた雁をぱらぱらとめくっている。

気付けば、すっかり事務所の部屋は暗くなっていた。
冬は暗くなるのが早い。

晴れた日の本の家からの帰り。今日は曇り

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