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とるにたらないこと2022/10/14-16
学術論文と基礎研究への科研費について。
都合上、サイエンス系の論文を読むことがある。
学術論文は英文で書くべきか。
最初から英文で書くべきであり、必ずダブルチェックとしてネイティブの該当分野の研究者にチェックと修正を兼ねたレビューをしてもらうべきである。
また、インパクトファクターを重視すべきである。
というのが、僕の学術論文を閲覧する際、留意するスタンスでもある。
母語で書いてから英文、ではなく、英文で始めから書く。
こうしたことを学生のときから訓練しておく。
理由はいくつかある。
論理性、厳密性を求める学術論文では、日本語の特質上、まどろっこしくなったり、復文的になるリスクが無きにしろあらずだから。
研究は国を超えて成果を批判、享受し合い、権力的なものに属したり、独占されるべきではない、と考えるから。
読者が多くなることにより学術的批判(非難ではない)も多く得られる。それにより研究者自身の今後の研究指針、予測、次の目標の手助けになり得るためである。
自然科学分野以外の学術論文の扱いがどのようになっているのかは全く知らない。
現代の世相に立脚して時代や文化背景の異なるものを比較検討する学問、例えば文芸や哲学について、科学的論文のようなインパクトファクターに代わる研究指標の数値化は有れば好ましいが非常に困難でもあるのは想像に難くない。
しかし、インパクトファクターなど可視化できる数値がない場合、科研費の割当もかなり難しいのではないか?と推察する。
例えば、某医学部某部某教室のひとつのテーマに年間300万円ほどの科研費が割当られているとする。
継続するかどうかを検討する際、インパクトファクターをチェックすることもあるだろう。
昔、某国立大学で大学の運営そのものの見直しを迫られた際、全学部、年間論文数やインパクトファクターでその学部自体を切るかどうかを某学部長が提案した。──僕はこうしたことは極当たり前と考える。
人文系教授陣から猛反対が上がった。
研究や論文数ではなく、我々は教育を施しているのです、と。
指導教育はどの学部であれ行ってもいる。
研究成果を結果としての論文であげられなければ切られるのは当たり前である。
予算を割り当てるには研究内容と成果が伴ってなければならない。
よって、分野によらず、なぜ英文で始めから書くべきか、の僕の考えが導き出されるところは、
学内外から多くの批判により論文のみならず研究と研究者の質の向上に繋がり、また、今後の研究指針を独りよがりにならずに打ち立てやすくもなるから
である。
日本語で沢山書くのではなく、始めから英文で練って書くことを学生に指導すべき。
また、上長である教授たちは学生やチーム内の部下たちに批判や議論、討論を躊躇させず活発に行うべき。
話ことばと専門性のある書きことばは違う。
そのため、冒頭で述べた、ダブルチェックが必須である。
ポスドクであったり、博士課程中の場合、コネクションがなかったりすることもあるかもしれない。
そうした場合、外部へ教室が依頼するケースもあるだろう。その費用はきちんと科研費から出されるべきだが、人文系は難しいのか?とふと気になった。
2004年の国立大学の独立法人化以降、基礎研究に割り当てられる科研費が年々削減されてもいる。
2009年の「事業仕分け」で科学研究予算の廃止や大幅削減が行われ、これについては海外からも批判されている。
あれから増税につぐ増税と大企業への委託研究やらへは予算計上が滞りなく行われているようだが。
国力の低迷からの脱却は意外とこうしたところを大事にする土壌があるかどうかもポイントなのではないだろうか。
*
英文で書く。批判されることを恐るべからず。研究の質を高めて、論文、研究が埋もれてしまわないように。埋もれてしまってはただの感想になってしまう。
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