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陰翳礼讃

著者 谷崎潤一郎

谷崎の和のしたたかな美や精神の真髄に迫った散文とも言える。
ポルトガル文学研究者でイタリア文学の鬼才アントニオ・タブッキは、須賀敦子のイタリア語翻訳版を愛読していた。
僕はアントニオ・タブッキが大好きでもある。

谷崎とタブッキには共通するものがある。

・郷愁→サウダージ
・陰翳→誰かの影を追いかける
・静寂→不在

和の伝統とタブッキのリスボンに求める──あるいはペソアの異名者タブッキのようにペソアを求める自身の中に本質的な何かを求める──ものが共鳴しあうようでもある。

和の伝統という観点から、さらに付け加えるならば
「間」
を僕は付け加えたい。

この日本独特の、静寂の作り出す「間」にこそ、精神の真髄があるように僕は思える。

以前、妻に教えてもらった旧ソ連からベルギーへ亡命したピアニスト、ヴァレリー・アファナシエフは、こんなことを言っている。

静寂と音楽はひとつになっています。ときに静寂は聞こえてくるし、ときには音楽が静寂となる。自分がしていることを聴けば、自然とそのようになります。自分の演奏を聴く、すると音楽は静寂へと育っていくでしょう。音楽は自ずと静けさに向かうのです

『ピアニストは語る』ヴァレリー・アファナシエフ 
講談社現代新書

また、妻はアファナシエフのことを語りながら、
「休止符の中にこそ、感情の高まりがあるのよね」
と言ってもいた。

日常の中でも、社会の中でも現代人は利便性や機能性の向上には関心を向けるが、墨絵の中の濃淡のような陰翳から立ち昇る風情や感情の緩やかな移ろいを見ようとしなくなってしまったかも知れない。

LEDの電灯ではなく、障子越しの柔らかいまだ少し冷たい外気をふくむ光。
その光が作り出す影は無機質ではなく、さまざまな感情をも呼び覚ましてくれる何かを含んでいる。

谷崎のこのエッセイで、日本の数奇屋造りと西洋的建築について序盤で触れられてもいる。

建築と言えば、現代では、戦後の高度成長期、「誰もがマイホームを持てる」といった類のキャッチフレーズとともに、大手ハウスメーカー各社は、国産ではなく、安価な輸入木材を重視(周知のとおり、特に構造用合板において)、機能性やコストカット、工期短縮を掲げて、プレカットによるそれまでとは異なる、組み立てるだけのような工法を推進してきた。あたりを見渡さなくともわかることだが、極論、純和風の数奇屋造りの家は、それこそ大豪邸か何かでしかないのが現在の日本の風景である。日本の伝統を無理に捨て去るかのような方向転換の最も分かりやすい事例のようにも思える。
これによって、失われたものは数限りない。
特に、この2年のウッドショックは、過去のこうした時期における国内林業サプライチェーンの軽視が露呈したものとも捉えられる。
また、組み立てるだけのように見える工期優先の現場では、当然ながら職人の労働環境は周知のとおり何十年と変わらず厳しいものでもある。賃金のみならず、技術面においてもだ。在来工法であれ、和室を施工する機会は非常に稀になってきている。
コロナ禍の巣篭もり需要から一戸建ての需要増加傾向が続く中、施工する職人は圧倒的人手不足でもある。
そして、頼みの綱は海外実習生の方々だが、彼らのマージンもかなり問題山積みである。これは竹中平蔵のいい加減な都合の良い政策の結果引き起こされているとも僕は個人的に思ってしまう。

日本の伝統を日本は日本なりのやり方で現代にアジャストできたはずだ。
なぜ出来なかったのか?
それは敗戦国だからなのか?
欧米の利便追求型に流される風潮だったのか?
なぜだったのかは、今の僕には勉強不足であまりわかっていない。

話がやや脱線してしまった。僕が言いたいのは、
「間」という美学の中にこそ──禅の「空」と繋がるような──投影される影の中をよく見て見てほしい。
ということだ。

墨のような濃淡ある情景、空気、体温、風、聴こえてくる葉のざわめきや水のせせらぎ、鳥たちの鳴く声。
五感全てを通じて感じうるその影の包含するものの中に、本来の《私》が見つめ返しているかも知れない。

それを感じるには、自然環境と静寂と時間が必須でもあるが。

太陽や雨の下にいることだけが望みだった──
日が照るときは 太陽の下
雨が降るときは 雨の下
(それ以外はない)
暑さ 寒さ 風を感じ
それ以上のことは しないこと

フェルナンド・ペソア

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