雨粒の思いを繋いでいくということ

#猫を棄てる感想文

 父親についての物語を、春樹さんは小説ではなく、ノンフィクションの体裁で書いた。この物語の主軸である戦争が人の心身や行動に与える影響について語ることだけが目的であれば、むしろ小説という形式のほうが春樹さんには得意なはずだ。『ねじまき鳥クロニクル』の間宮中尉の長い話のように。
 しかし、春樹さんは、本名と実在の場所と正確な日付をもったノンフィクションを選んだ。その真実性と具体性に触発されて、(これこそが春樹さんの意図かもしれないが)読者は自分(や自分の身内)と春樹さん(や春樹さんのお父さん)を比べながら読み、そして自分の来し方行く末に思いを巡らせることになる。

 僕は亡くなった父親のことを思い出していた。
 僕の父は昭和三年生まれなので、春樹さんの父親千秋氏のちょうど十歳年少ということになる。この世代の十歳の年齢差には結構大きな意味があって、千秋氏は出征を余儀なくされたのに対して、僕の父の世代は普通に過ごしてさえいれば、徴兵されずに終戦を迎えられたはずである。
 だが、父は高等小学校を出た後、十四歳で海軍特別少年兵に志願している。当時、田舎の小作農家から上級学校に進むことは稀だったし、何よりいっぱしの軍国少年だった父は兵隊になることが憧れであり、入隊試験に合格できたことは何よりの名誉であったのだという。特別少年兵は軍の教育機関としての位置づけもあったと聞くが、それでも戦死した少年兵も多くいたそうだ。父は幸運にも実際には戦地に赴くことはなく、佐世保で終戦を迎えている。
 復員して一旦は故郷の愛媛に戻るが、口減らしのために関西に出て、仕事も住処も転々としたようだ。戦後の混乱期は父にとっては青春時代のはずだが、この時分の話はあまり聞かされたことはない。
 二十代の終わりのころ、そこそこの大企業の現業部門に職を得て、その後定年まで三十年あまり勤め上げることになる。北海道から同じく口減らしで関西に出てきていた母と、兵庫県西宮市の海辺の町で所帯を持ち、僕が生まれるのは昭和三十五年である。

 そんな父の生い立ち話を聞いたのは、僕が小学生のころである。学校の宿題で「お家の人から戦争のときの話を聞いてきなさい」という宿題が出たのだ。小学生の僕は父の話を遠い世界の物語のように聞いていた。実際の出来事と理解はしていても、実感はなかった。同級生と戦争が話題になることなんてなかったし、今の暮らしはとても平和に思えた。
 父は淡々と出来事は語ったけれど、その時々の気持ちや感想はほとんど口にしなったと思う。僕も特に質問は思いつかなかった。

 今なら、訊いてみたいことはある。
 僕が知っている父は、陰気ではないけれど、どちらかというと内向的で物静かなタイプである。小説もずいぶん読み漁ったようだ。当時の狭い借家に本棚が数本置かれていたことを覚えている。戦後の価値観の転換のなかで、混乱を埋めるには文学が必要だったのかもしれない。文学を必要とした父は、自分の内に向ける目を持った人であったと思うし、集団のなかにいるよりも、一人でいることを好むタイプだと思っている。そのような性質は生来のものであり、いわば生理的な感覚に近いものなのではないかとも思っている。
 そんな父が十四歳の子どもだったとはいえ、軍隊のような集団組織に対する嫌悪感とか死や暴力に対する恐れを感じることもなく(?)、血気盛んな軍国少年となり(?)、入隊を自ら志願したという事実は、僕にはうまく理解できないことだった。
 生来のものと思える生理的な感覚や感受性でさえも、教育で変えてしまえるということなのだろうか。あるいは一度も自由に学んだり考えたりした土壌がないと、まともな感受性なんて育たないということなのだろうか。それとも、僕の知っている父の性質は、生来のものというより、戦中戦後の混乱を経て獲得された後天的な性質なのだろうか。なんといってもまだ十代の少年だったわけだ。そこが、すでに自我を確立した青年として戦中戦後を過ごした千秋氏(の世代)との大きな違いなのかもしれない。
 どんな気持ちで父は軍隊を志願し、どんな思いで終戦を迎え、その後の人生に不満は感じなかったのだろうか。やはり、そこだけは訊いておけばよかった。そして、自分の選択に後悔はないか、もっとやりたいことはなかったのか、と。
 他人の人生の幸不幸を推し量るなんて不遜なことだとは思うけれど、どう控えめに表現しても、父の世代は時代に翻弄された世代であることだけは間違いなさそうである。
 人生にはコンピュータプログラム同様、無数のIFの分岐があり、THENを選ぶかELSEを選ぶか、そのときそのときの精一杯の選択をしていくわけだ。選択するのが自己責任だとするのなら、せめてどの道にもきちんと出口だけは用意されてあるべきだと思う。EXITのないプログラムを作ってはならない。
 僕がいま思うのはそういうことだ。

 いずれにせよ、父(そして母)の、無数の選択の掛け算の結果、僕は今ここにたまたま存在している。春樹さん同様、とても不思議な気持ちになる。春樹さんが自分のことを「雨粒の一滴」だと言うことに俄かに同意はできないけれど、その言わんとする気持ちはよくわかる。僕も父も、(これこそ紛れもない)小さな雨粒の一滴である。もちろん雨粒の思いもあるし、その思いを繋いでいく責務だってあるはずだ。
 でも「思いを繋ぐ」なんて、肩肘は張るまい。僕が父からどんな影響を受け、どんな思いを受け継いでいるのか、今でもよくわからない。僕が結婚して世帯が別になってからは、年に数回会う程度だったし、会っても大した会話をするわけでもなかった。父から「言い残しておくこと」を聞いた覚えもない。父子の間には軋轢も確執もなかったけれど、年月の経過とともに、関係は次第に希薄になっていったようだ。
 それでも確実に言えることは、「僕は父親のことを覚えている」ということだ。それが彼のほんの一側面に過ぎないにせよ、たとえそれが彼の思いとは若干の食い違いがあるにせよ、僕が覚えていることが僕に伝わった父の思いなのである。申し訳ないけれど、諦めてもらうしかない。
 もちろん、僕にだって、思いを繋ぐ責務はある。でもまあ、僕のことを覚えてくれる人が一人でもいれば、それで責務は果たせるのだと思いたい。その人の記憶の中で、僕が何を語るのかよくわからないけれど、少なくともそれが僕の伝えることができた思いなのだ。自分の思いが相手の思いと化学反応を起こしながら、形を変え、色を変えて、繋がっていく。それで良いと思えば、随分気楽である。
 
 僕は今年、還暦を迎える。春樹さんより一回り年下だ。春樹さんと同じ西宮の海辺の町で少年時代を過ごした。春樹さんが猫を棄てに行った海岸は僕の遊び場でもあったのだ。ただ僕の遊んでいた昭和四十年代は、すでに海水浴のできる浜ではなく、公害に汚された赤潮の海になっていた。春樹さんとはずいぶん違う景色を見ていたんだと思う。さらに十年後の昭和五十年代には海は順番に埋め立てられ、高層マンション群が出現することになる。
 今も時々、わずかに残された砂浜にやってきて海を眺めることがある。あの頃の風景は失われてしまったが、新しい街は綺麗だし、赤潮で汚れていた海は随分綺麗になった。
 随分遠くまで来てしまったけれど、時代が進むことは悪いことばかりではない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?