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【那田蜘蛛山編】鬼滅の刃を「人間関係のマトリックス」で解く。❷

アニメ『鬼滅の刃』の神回第19話「ヒノカミ」(コミックス5巻)を久しぶりに観てウルウルしていたら、また書きたくなったので、

【那田蜘蛛山編】を「人間関係のマトリックス」で解きたいと思います。

『鬼滅の刃』に皆が感動する秘密を、人間関係のマトリックス・ファシリーテーターとして、今回も「人間関係」という視点で掘り下げていきますので、お付き合いください!

まずは「人間関係のマトリックス」について復習です。

人間関係には4つのポジション、2つの関係しかありません。

⚫︎前向きパワフルな【ポジティブ自立】×悲観的で愚痴っぽい【ネガティブ依存】
⚫︎高圧的攻撃的な【ネガティブ自立】×癒し系マスコットキャラ【ポジティブ依存】

『鬼滅の刃』主人公たちのポジションは、

前向きなリーダー竈門炭治郎(かまど たんじろう)は、【ポジティブ自立(ポジ自)】
癒し系マスコットキャラ竈門禰󠄀豆子(かまど ねづこ)は、【ポジティブ依存(ポジ依)】
悲観的で愚痴っぽい我妻善逸(あがつま ぜんいつ)は、【ネガティブ依存(ポジ依)】
いばってて攻撃的な嘴平伊之助(はしびら いのすけ)は、【ネガティブ自立(ネガ自)】

4つのポジションをそれぞれ担当していることがわかります。そして、この4つのポジションは固定されたものではなく、相手との関係性で変化します。

炭治郎は基本リーダー気質のポジ自なのですが、超ポジ自の煉獄さんと一緒にいるとネガ依存になり、煉獄さんについていけなくなります。

善逸はいつもはウジウジしてるネガ依ですが、女の子がからむと、むちゃくちゃヤル気を出したり(ポジ自)ブチ切れたり(ネガ自)します(笑)

僕たちも、相手によっていろんなポジションを体験しています。ヤル気出したり、イラッとしたり、ヘコんだり、ボーッとしたり、あなたも身に覚えがあるんじゃないですか?

ポジションの詳しい説明は、前回の記事【無限列車編】をご覧ください↓
https://note.com/bookparty/n/ne39a55d809b5

人間関係のマトリックスについて、より詳しく知りたい方は、こちらの本がオススメです!

本田健『ユダヤ人大富豪の教え3』(大和書房)
(Amazon→ http://amzn.to/2zt01qs

さて、ここからはネタバレ気にせずいくので、ご注意ください!!

まずは、那田蜘蛛山の鬼の家族関係を見ていきましょう。

恐怖で結びついた家族関係。

下弦の伍、累は生まれつき体が弱く、歩くことさえ辛い幼少期でした。人に助けてもらう状態も、ネガティブ依存です。

川で溺れた子どもを救い亡くなった親の話を聞いた累は、親の愛に感動。「親の役目」を果たす姿が見事で、それが理想の家族の姿として印象に残った。

命を捨てても助ける親と、助けてもらう子ども。人を助けるポジ自と人に助けてもらうネガ依。そして、累自身はネガ依で助けてもらう。これが累の理想の親子関係。

それなのに、

父親は、累のことを殺そうとするし、母親は泣くばかりで庇うことすらしてくれない。子どもを救うどころか殺そうとする親の姿に怒り、すでに鬼になっていた累は、逆に2人を殺す。ネガティブ自立です。

この親子関係は、偽物だったんだ。

命をかけて子どもを守るのが理想の家族だった累は、自分を殺そうとした親との関係を偽物と判断する以外に、自分を納得させることができませんでした。

そして、累は他の鬼を集め、擬似家族をつくります。

家族になった鬼たちは「役目」を果たすことを強いられていた。母らしくふるまう。姉らしくふるまう。家族らしくふるまう。「役目」を果たすことに失敗したときは、累に切り刻まれ身体をバラバラにされたりする(鬼だから死なない)

これは、累がネガ自で、その他の家族全員がポジ依状態。家族全員、累を怖れビクビク生きている。累の前ではもちろん、家族の前でも本音を言ったりしない。家族にこっそり本音を言った鬼は、あっさり裏切られ、累に殺されます。

実際にあった、家族の人間関係。

思えば、僕と家族との関係も「役目」はキーワードかもしれない。父らしい。母らしい。弟らしい。そして、僕は長男らしい。それぞれ家族で求められる「役目」を果たし、一見もめごとのない素晴らしい家族に見えたんじゃないかな。

当時は僕自身、いい家族だと疑いもしませんでした。今だからわかりますが、家族全員「役目」をはたすのが上手だっただけで、誰も本音を言わなかっただけかもしれません。

もちろん、僕もまったく本音を言わなかったわけじゃありません。弱音を吐いたとき(一度だけしか記憶にないけど)は、母が助けてくれました。

立派な長男という「役目」を果たせなかった場面でも、バラバラにされることなく(当たり前!)叱られることもなく、ガッカリされることもなく、守ってもらえたのは嬉しかった。

助けてもらう、守ってもらうのは、ネガティブ依存。

累も本当は、この関係がほしくて擬似家族をつくったはず(ネガ依が累の理想のポジション)。ところが、累は弱音を吐いたり、弱いところを見せ、家族から守ってもらうことはできない。

なぜなら、恐怖でコントロールする、つまりネガ自で支配しないと家族が「役目」を果たさないと信じている。当然、コントロールを手放すことができません。強烈なネガ自に対することで、家族全員ポジ依にふっ飛びます。

那田蜘蛛山の戦い。

そんなポジ依家族の鬼たちも、ひとたび人間を相手にすると強気です。人間たちを残酷に殺します。相手によってポジションが変わります。鬼たちは人間相手だとたいていネガ自ですね。

那田蜘蛛山編の他の登場キャラのマトリックス的解釈もなかなか面白いんです。

胡蝶しのぶ、栗花落カナヲ、冨岡義勇。
個人的には、善逸はぜひ一度取り上げたい(笑)

それはまた機会があれば。

炭治郎と累の戦いは、

ビュンとなって、ガツンとされて、ボタボタっとなって、「ねづこーー!!」と叫んで、全集中して、「死…」となって、竈門炭治郎の歌がかかり(アニメね)、ビュッとなってシュッとなって、「爆血!」でボンとなり、ガン!!って感じ(笑)

なんか何度見ても「爆血(ばっけつ)」で泣けるんだよね〜(見てない人のことはまったく考えてない 笑)

最終的に累は首を斬られるんだけど、死の間際に忘れていた人間時代の記憶を走馬灯のように思い出す。

鬼となった累を殺そうとする親は、命がけで子どもを守る理想の親の姿への裏切りに見えた。しかし実は親は、鬼となり人間を殺してしまった累と一緒に死に、責任をはたすつもりだった。

累のために自分の命をなげだす、偽物じゃない本物の親だった。本物の親子の絆を断ち切ったのは累自身だった。

自分がしてしまったことに耐えられず、しかし毎日父と母が恋しい累は、偽りの家族をつくり自分を誤魔化そうとしたが、そんなことで虚しさが埋まることはない。

そして、累は思い出す。

「謝りたかった」
「ごめんなさい。全部全部僕が悪かったんだ。どうか許してほしい」

ごめんなさい。
このひと言を言えるのは、ネガティブ依存。

許してほしい。
このひと言を決して言えないのが、ネガティブ自立。

ネガティブ自立で、後悔から偽りの家族を維持することに必死だった累には決して口にすることが出来ないのが「ごめんなさい」と「許してほしい」

「ごめんなさい」を言えた累は、最後に、理想の家族関係に戻ることができた。ネガティブ依存。つまり親はポジティブ自立。ようやく慣れ親しんだ家族関係に帰ることができた。

でも、鬼になり山ほど人間を殺してきた自分は地獄に行く。父さん、母さんとは同じところに行くことができない……

ネガ依とポジ自に離ればなれになった親子が出会うことはできない。わかりあうことはない。

その時、累が感じたのが、背中に置かれた陽の光のような優しい手の温もり。

センターで出会う。

それぞれのポジションにいると、お互い深くわかりあえることはない。理解しあうことはない。しかし、お互い相手に歩みより、ちょうど中心、センターで出会えた時、それまで出会えなかった二人が、家族が心の深いところから溶けあう。本当にほしかったものが手に入る。

累は、ネガティブ自立が決して言えないセリフ「許してほしい」を言えた。これがセンター。

センターに歩みよることで、累がついに出会うことができたのは、

「一緒に行くよ、地獄でも」
「父さんと母さんは累と同じところに行くよ」

家族の絆。
子どものために命をかける親の姿。

この「一緒に地獄に行く」はポジティブ自立が絶対言えない言葉。ポジ自が前向きなのは、ネガティブな状況に耐えられないことの裏返し。地獄に堕ちないために必死で頑張っているポジ自に「地獄に行く」ことはできない。地獄から自力で出てきた人を助けることはできる。でも、一緒に地獄に行き、誰かを助ける勇気はない。

「一緒に行くよ、地獄でも」と優しく明るく言うのは、ポジ自からセンターに行った証。感動的ですよね(ネガ依からは簡単に言えるセリフだけど、優しく明るく言うことができない。暗い感じになっちゃう)

鬼だろうが、人間だろうが、とても分かりあえると思えない2人が歩みより、センターで出会う姿に、多くの人は心打たれます。

『鬼滅の刃』は【ゆるし】の物語。

累が最後に背中に感じた陽の光のような優しい温もりは、実は、炭治郎の手でした。

この炭治郎の優しい行為は、共感力を発揮しているネガティブ依存の行動です。ポジ自だけじゃなく、真逆のポジションであるネガ依の共感力を鬼にも発揮できるところが炭治郎の魅力です。

そんな炭治郎を、義勇さんがたしなめます。

「人を喰った鬼に情けをかけるな」
「醜い化け物だ」

何十年何百年と生きて、人を食べてきた鬼への態度としては当然ですよね。一歩間違えれば自分たちも殺されるんだし。

ところが、炭次郎は、

「勿論俺は、容赦なく鬼の頸に刃(やいば)を振るいます」
「だけど鬼であることに苦しみ、自らの行いを悔いている者を踏みつけにはしない」

あなたの目に映る、憎っくきアイツは「悪人」なんだろうか?
悪い行いをするアイツは「悪人」だから裁かれて当然。正しいのはコッチなんだから、当然アイツを裁いてもいいんだろうか?

「鬼は人間だったんだから」
「俺と同じ人間だったんだから」

「醜い化け物なんかじゃない」
「鬼は虚しい生き物だ。悲しい生き物だ」

悪い行いをする「悪人」と、いいことをする「素晴らしい人」がいるんじゃない。
悪い行いをする「素晴らしい人」と、いいことをする「素晴らしい人」がいるだけだ。

炭治郎は、圧倒的に性善説!!
「怖れ」からじゃなく「愛」からものごとを見ることができる人。

「怖れ」から見るならば、目の前にあらわれる人はすべて悪い行いをする敵になる。「愛」から見るならば、目の前にあらわれるすべての人とつながることができる。

目に見える行いに惑わされず、
「愛」から見よう!!

くっきー🍪

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