自由主義的なアメリカとそれを超える新自由主義

自己責任型社会のアメリカ

19世紀にかけて少数の先住民族であったアメリカ人は自ら広大な原野や森林を切り開いて集落や農園を築いてきた。自分自身以外に頼るものもなく生活を支えてきたため、今のアメリカのように自分で自分を守るという価値観が生まれた。合衆国憲法でも、武装の権利つまり銃の保持が認められているのはそれが原因。また、そのためにアメリカでは国民皆保険といった概念がなく、病気に対しても自分で対応しろといった方針で、一部の高齢者と障碍者と貧困層のための公的医療保険以外には公的保険は存在しない。それは政府が国民全体のための公的保険を作ることが大きな政府つまり社会主義であるといった考え方をするからだ。市民は民間の保険会社が販売する医療保険を自分で買って病気に備えるしかないが、利益を追求する民間の保険会社は医療費給付削減に躍起になり(ガンなどの重病は保険でカバーしなかったり、保険契約時に過去の病歴を申告しなかったなどと難癖をつけて医療費を給付しなかったり)、その結果保険に加入できない貧困層が全体の15%を占め重病患者が医療費を払えずに自己破産したり家を手放したりするケースが多い。保険会社は公的保険がないといった国民の弱みに付け込み、莫大な利益と既得権益を失わないように国会議員に巨額な政治献金をして医療制度改革に反対させたり会社ぐるみで従業員にも特定の候補者に投票させたりしている。アメリカでは貧乏人は病気になっても医者にかかれないのが当たり前、その逆ではイギリスが医療費を無料にしているが、病気になって診療を受けるまでに数日から数週間待たされることもある

新自由主義者の極端な論理

新自由主義とは、自己責任論を正当化し、農村への財政支援や中小企業らの保護は悪平等をもたらし、競争原理の導入や小さな政府を目指すことが公平をもたらすため、市場の中で自らの努力が必要だとする理論。しかしすべての人間や業界を同じ土俵で競争させ努力しろというのは尺度があまりにも一次元的で、その条件は現実的ではない地理的条件や苦境(災害や家族環境)や立場は人々の間で異なり、選択の自由も制限されている彼らは強者である新自由主義者とは努力の限界も異なるためだ。社会的強者が努力した者が報われる社会を創れと主張するとき、そこでは暗に自分たちだけが本格的な努力をしているというおごりが前提となっている。低賃金労働者や求職者らもみな自分の生きる場で努力をしていることが想像できず社会的弱者は努力していないから弱者であるという考えを持っているため、新自由主義者らは農業や流通業や労働者に対する政策的な保護を取り払おうという考えになるのである。社会はオーバーアチーブする人間が、時としてアンダーアチーブしてしまう人間を支援し扶助するから成り立っている(ノブレス・オブリージュ)のに、新自由主義者らは自分がアンダーアチーブしてしまう人間になるとは微塵も想像していないからこそこんな主張をするのである。

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