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縄文展

に、行ってきました。(去年の11月。)

本当は行ったその日に書こうと思ってたことを、今、少しずつ思い出しながら。

最近、武田鉄也さんがやっているラジオを聴いているのだけど、その中でも縄文の話が面白くてハマっている。(武田鉄也 今朝の3枚おろしというタイトルです。)

縄文時代といえば、日本の歴史に授業でささっと知る程度だけど、知れば知るほど面白い時代だったんだ、という事に今更ながら気づく。

ラジオの内容は、縄文時代の人々の生活や文化について研究している人が出した本を武田さんがテーマを決めて紹介するというものなんだけど、縄文文化については、まだ謎な部分も多くて、「実は○○だったんじゃないか。」という様々な仮説の「○○」の部分の武田さんの解釈が面白くて、いつも聴き入ってしまう。まだ謎だからこそ、色々妄想して、あれこれ考えるのがロマンがあって面白い。

「日本人の流水好きは縄文時代から」とか、「縄文のメデューサ」とか、「勾玉の本当の意味」とか、「縄文時代が1万年も続いていた理由」とかとか、、、縄文を切り口として、「日本」と言う国がどれほど恵まれた自然や土地の中で、どうやって独自文化を築いていくのか、と言う話にも繋がるので、面白いです。おすすめです。

縄文の話をわくわくしながら聞いていた折、ちょうど両国で縄文展がやっているとのことで行ってきた。

リアル土偶、リアル勾玉、リアル縄文土器、すっげえ!


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控え目に言ってすごすぎませんか!?土器は圧巻。触りたかった。約1万2000年前からこんなものを作ってたなんて、本当に信じられない。だって、轆轤もないんだよ!?

装飾も細かい模様がたくさん入っていて、「一見適当に見えるけど、適当じゃない緻密さ」と、「左右非対称なんだけど、整っている」という独特なバランス感覚が縄文人には備わっていたんだろうな。その美的センスくれよ。

やっぱり、あの実物の模様の細かさとか、質感とかは、教科書だけでは感じられない。これを人の手で生みだしているということに、なにより驚く。
この模様の発想元は何なのだろう。やっぱり野山に生える草木や川、海などの自然から着想を得ているのかな。縄文人と話ができたらなあ。ドラえもーん!!

土器はどれもばらばらになった欠片を1つずつパズルのように組み立てられたものだった。しかも、欠片は日本各地でバラバラに見つかっているものもあるとか。まだ全部のピースが揃っていなくて、不完全なものもあったけれど、組み立ててくれた研究員、調査員の方々、お疲れ様です。

ちょうど武田鉄也さんのラジオで縄文の文化についての話を聴いていた時で、土器にまつわるお話はたくさんあったけど、その中でも「縄文人は実は土器や土偶をわざと割っていたのではないか」という説が面白かった。今ちょっとうろ覚えだけど、そもそも土偶とは女の人や出産の象徴であり、当時の出産は命を落とす危険な事。縄文寺時代にはすでに「安産を願う儀式」的なものがあり、その儀式が終わったら土偶を破壊してその破片を描く家族のお守りとして埋葬したとか。
土器や土偶が出土したときに各地でバラバラに見つかるのは、そう言う事であれば納得。つまり、土偶は儀式のために割られる前提で作られていたと言う事になる。面白ーい!!その時代から儀式的ものがあるって言うのも面白いし、割ってしまうものなのに、色々な形や細工をして美術を追求するという精神も面白い。

それから、数々の土器を見て思ったことは、人類どの時代もやっている事は変わらないんだなーと言う事。

メインの展示物が土器だったので、「時代ごとの土器の特徴と移り変わり」みたいなコーナーがあって、それを見た時に思った。

まず、「道具」として「使えるモノ」が生まれる。
→「使えるモノ」に「装飾」がされるようになる。
→「装飾」や「大きさ」や「機能性」を競い合う。
→一通り競いあったら、「見た目と機能を兼ね備えた美しさ」を追求するようになる。

「モノ」が誕生してから行きつく先みたいなのもそうだけど、「人間の生き方、人生」みたいなものにも当てはまるんじゃないかな、と。

例えば、「装飾」の時代は、10代~20代。着飾ったり、メイクしたり、自分を良く見せようとする時代。

「競争」の時代は、30代~40代。社会に出て様々な人との関わりの中で、「自分とは」と向き合う時代?

そして、50代以降、「自分ってやっぱりこうなんだよね。」って答えが見つかる時代に移っていく。

土器と時代の移り変わりを見ながら、人生の移り変わりが土器に投影されている気がして、また縄文にロマン感じちゃった。

あとは、製作時のヒントというか、やってみようかな、と思ったことが、「道具をまったく使わないで手だけで作る。」というやり方。

今もその技法で作っている人は、いらっしゃるかもだけど、轆轤はもちろん、木小手、針、スタンプとか、とにかくいつも何も考えずに当たり前に使っている道具を使わずに、「自分の手」だけで作ってみる。

縄文人の作る土器や装飾は、すごくたくさんの模様が装飾されているけれど、使っているものは、「石」や「植物」など、最低限のものだったりする。色々な形の小手やら、針やら、今はたくさんのものがあふれているけれど、縄文人からすると、最低限ありゃこんだけの装飾できっけど?って感じなんだろう。

あの装飾見ちゃったら、なんか、「自分、頭固すぎじゃない!?」って思わざるを得なかった。

もっと自由な発想で、土が伸びる方向に身を任せることをやってみようと思った。そんな新たな発見があった縄文展でした。

外に出て、人の作品を見る機会って大事。




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