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ポテサラじいさんとハーネス嬢ちゃん、それから私。

私は日々Twitterで自分のあれこれそれを呟いている。
育児専用アカウントではないのだけれど、5歳と2歳の男の子がいるので、
日常そのものが育児というか、エブリデイ、エブリタイム、エブリシング育児中なので、
ツイートの内容も子どものことが多く、
相互さんやフォローしている方、フォローしてくださっている方にも育児中の方が多い。
そんな感じなので、私のタイムラインには身近な家事やら育児やら「子どもがあれしてぎゃー!」「ごはんさっき作ったのにまた作るの?わー」みたいなそういうツイートがたくさん流れてくるし、私もそういうツイートをどんぶらこと流している。

さて、Twitterも数年使っていると、何度か似たような炎上に遭遇する。
「母乳か、ミルクか」「離乳食は手作りか否か」とか。
身近な家事や育児の(良くも悪くも)注目されているツイートが流れてくるのは至極当然といえば当然なのだけど、
まあ、なかにはお上品に言えば「眉をひそめる」というか、普段の私からしたら「あ゛ぁ?」と言いたくなるものも、正直、ある。

その中でも割と記憶に新しいのが「ポテサラじいさん」
これはTwitterで話題となり、朝のワイドショーにまで取り上げられていたので、ご存知の方も多いのではないだろうか。
事件は日中のスーパーで起こった。
子どもを連れた女性がスーパーでお惣菜のポテトサラダを手にとったところ、ご年配の男性が「母親なら、ポテトサラダくらい作ったらどうだ」と言ってその場から立ち去り、女性は俯いてしまった。
それを見ていた別の女性(ツイ主)が大丈夫ですよと念じながらポテトサラダを2つ買ったというものだ。

これは本当に様々な意見を目にした。母親だからポテサラを作るというのに因果関係はあるのか?ポテサラ「ぐらい」とはなんだ。ポテサラ作る手間を知らんのか。あれはサラダの中でもかなり手間がかかり、冷ます時間もいる、サラダ界でも最強・・・。副菜であるサラダに手間をかけるのは非合理的。そもそもその年配男性自身は作ったことがあるのか。
実際にワイドショーでは街ゆく人々に「ポテトサラダ、作りますか?」みたいなアンケートをやっていて、テレビ局側がどんな聞き方をしたのかは分からないが、実際に高齢男性が「ポテトサラダはねえ、家で作った方がいいんじゃないかな」などと答えていて、ポテサラじいさんいるんだ・・・!と衝撃だった。
「ポテサラはスーパーで買う」と書かれたTシャツも販売され、この店のポテサラはうまいというおすすめ情報、あらゆるポテサラレシピやそのアレンジレシピが出回り、Twitterは見渡す限りポテサラ、あっち見てもこっち見てもポテサラ、みんなポテサラ大好きなんだな。
私のタイムラインはポテサラが拾い切れないくらいどんぶらこされていたのである。

そこで困ったのは私だ。
なんと驚くべきことに私はポテサラ手作り派なのだ。
理由は簡単。
ポテサラが大好きなので、たくさん食べたいのだ。
お惣菜では量が足りないから。
あの出来立てのほんのり温かいポテサラを愛しているから。
翌日余ったポテサラをこんがり焼いた食パンにのせて炭水化物と炭水化物のミルフィーユを楽しむのが好きだから。
しかも、茹でたじゃがいもを皮を剥いてすぐに酢と塩胡椒で「下味をつける」というレシピを知ってからはさらに味に深みが出て・・・というか、しっかり芋に味がついてさらに美味しく作れるようになったので、もう私はポテサラ作りに夢中だった。
そんな矢先のポテサラじいさん事件だった。
そこで「ほら、子どものいる母でもポテトサラダぐらい作れるじゃないか」じいさん(妄想)が嬉々として出てきてしまう。
違うんです、違うんです、私はポテサラが好きなだけで、好きじゃなかったら、あんな手間のかかる料理絶対やらない。私がアホみたいに食いしん坊でなければ、普通にお惣菜のポテサラ買う。
ポテサラじいさんが炎上して以来ポテサラという言葉を数日見続けたせいで私の口はもうポテサラしか食べたくないのに、今ここでいつものように「今日のごはんはポテサラ作ろ」とでも呟いたら火に油。
そのため、私はここに書いたように「違うんです、私は大食いで・・・ポテサラが大好きで・・・惣菜では量が足りなくて・・・」などと言い訳をしてから「今晩はポテサラです」とツイートしなくてはいけなくなった。

ポテサラじいさんの大誤算である。
彼は「彼自身の理想とするポテサラを手作りする母親」まで窮地に立たせたのだ。
なんという悲劇。
こんなの誰も望んでないよ・・・。

母親であり、ポテトサラダを手作りする側であっても、「母親ならポテトサラダぐらい作ったらどうだ」と言う言葉は「そうだそうだ」と賛同するものでも、喜ばしいものでもなんでもなかった。そもそもなんで他人にジャッジされなくてはならないのか。

前置きが非常に長くなった。二度目の投稿なので許して。
多分今後もこんな感じになるだろうけど許して。
まあとにかく、Twitterではよくそういう「時代の違い」「経験者と現在の当事者」「理想論と現実」が絡み合い、時に炎上する。

今回の「子どもむけのハーネス」もそうだった。
発信者は子どものいない若い女性だったようで「ハーネス嬢ちゃん」などと異名が付けられていた。
「ポテサラじいさん」に「ハーネス嬢ちゃん」
アンパンマンのタイトルか。助けてアンパンマン。

発信者曰く個人的な意見であると前置きした上で「その子に対する人の目を無視してまで道具に頼ろうとする親の怠慢が許せない。」「子の命は親が命がけで守ってほしいものです。」とツイートしていた。

子ども向けのハーネスについてはたびたび炎上している。

「ペットみたい」「手を繋げばいいのになんで」とかとか。
見た目のイメージや、「子どもって手を繋ぐ生き物じゃん?」という思い込み。
子どもがいないとき、私もそう思っていた時もありました。

ありました。

それが事実ではなかったと知ったのは長男が生まれてからのこと。
2歳の頃からおしゃべりが大好きで、
保育園の連絡帳には「今日もお昼寝しませんでした。」の言葉がほぼ毎日書かれ、
面談では「長男くんはお昼寝の時間になって、寝ないので先生とおしゃべりをしているとだんだん楽しくなってきてどんどんおしゃべりの声が大きくなってしまうので、別部屋に移動しています。」と伝えられる。

寝つきが悪いのにも加えて、さらに多動が加わり、こだわりも出始めたのもこの頃。
長男のイヤイヤ期はイヤイヤなんてレベルのものじゃなかった。破壊と創造、そして、破壊、破壊。
でも私は「わかるー!2歳のイヤイヤ期ってそんな感じよね」という先輩ママさんの言葉から、「みんなイヤイヤ期ってこんなものなんだ・・・」と自分を納得させようとしていた。程度が、全然、違ったのだ。

当時私はフルタイムで働いていて、とにかく1日をこなすので精一杯だった。
保育園へお迎えに行ってスーパーで買い物をしたい。明日の朝のパンだけでいい。
そう思ってスーパーに行き、スーパーの前で長男が五体投地をキメる。あるいは猛然と突っ走る。絶対に子どもの手を離すまいと決めた私の腕がビーンとなる。
「お願いパンだけ、パンだけでいいの」と言っても長男はイヤイヤと泣き叫ぶ。
周りの目線が痛い。でも手を離してしまってお店の外へ飛び出していったら。
2歳の子供の足はすごい。迷いなく走っていく。親は持っていたスーパーのかごをどうしていいか一瞬迷う、そんなことをしているうちに、子どもは今まさに外へ。
今日も買い物を諦める。明日の朝はおにぎりだ。握る時間、あるかな。
夜はうまく入眠しなくて寝ぐずりする長男を抱えて、あくびを噛み殺す。

そのうち、長男といるときの、人からの目線が怖くなっていた。
子どもといると一人でいるときよりずっと目線が集まるのだ。
「ああ、あんなに泣かせて」「しつけのなってない子だな」「親がいるのになんであんなにうるさいの」
そんなふうに思われてジャッジされていたらどうしよう。
初めての育児は、思い描いていたものでは全然なかった。怖かった。
間違っていたらどうしようと思う、周りの目も気になる。
私の愛情不足だったらどうしよう。寝ないのも、手を繋いでくれないのも、全部。
仕事してるからダメなのかな。こんな親だから、ダメなのかな。
こんなことを言おうものなら「わかってて、産んだんじゃないんですか」などと言ってくる人もいる。
今なら言える。「あなた誰」と。でも当時の私は、そういう無関係の人から投げられた何気ない、「自分の理想の母」とかシンプルに意地悪な言葉を防ぐことができなかった。だって処理落ち寸前なんだもん、そんな余裕、あるか。

あのときの私は、まず第一に寝不足。
朝起きて、9時5時で仕事をして、それ以外は家事育児。
眠る時間は長男の寝つき次第。睡眠時間はうまくいけば5時間、下手したら2時間。
長男がやっと寝て、でもその頃には自分の眠気など吹っ飛び、気がつけばスズメがちゅんちゅんなんてこともあった。こんな朝チュンある?
そして、仕事、保育園からの連絡、発達のこと、買わなければならない調味料、あっ、生協の注文やったっけ、昨日の問合せの件、上司に相談して今日中に回答できるかな。
頭は処理落ち寸前。疲労オブ疲労。
そんな頭でポジティブになんてなれるはずもなかった。
初めての育児。それでも「母親だから」で世間はわりと無理難題を急に突きつけてくる。
突きつけてこなくても急に「自分の思う理想の親」を急にプレゼンされる。
「ポテトサラダは作るもの」だ、「ハーネスや道具なんかに頼るな」と。

でも、私だってそれに答えたかった。育児も、仕事も、がんばりたかった。
いい母親になりたかったし、社会貢献だってしたい。
あの頃の私は本当に健気だった。

ハーネスも何度も検討した。手を繋いでくれない、興味を持ったものがあると一直線に走ってしまう長男に必要だと思った。
それでも、どうしても買えなかった。
あのとき、私が優先したのは「子どもの安全」ではなく、「人からの目線と、人から言われるかもしれない想像上の意見」だった。
それぐらい、私は自分の育児に自信がなく、日々に忙殺され、でも長男をありとあらゆる危険から自分の手でなんとか守りたかった。

3歳になって長男は少しずつ手を繋いでくれるようになった。夜も寝ることがうまくなり、私たちは、あのときよりずっとうまくやれている。

5歳になり、長男には発達障害の診断がついた。
2歳のときもおしゃべりだったけれど、今はさらにおしゃべりが上手になった長男自身が教えてくれた。
「僕ね、小さい時ね、あんまり手を繋げなかったでしょう?あれはね、赤ちゃん病だったの。」
「手がね、くすぐったくて嫌だったの。お兄ちゃんになったらね、くすぐったくなくなった。」
必死で離すまい、この子を守りたいからと繋いでいた手は長男にとっても窮屈で、不快で、長男は優しい子だから「くすぐったい」という言葉を使ってくれたけど、
過敏な長男には苦しいものだっただろう。
だって、離れないように握った手はきっとどんどん強くなってしまっていた。
きっと痛かったときだってあるに違いない。
それを伝えるのに、当時、泣くことでしか伝えられなかったのは、長男にとってどれほど苦しかっただろう。
でも長男の言葉に救われたのは、あのときの、私だ。
「どうして、どうして手を繋いでくれないの、危ないんだよ、車にひかれちゃうかもしれない。死んじゃうかもしれないんだよ。教えてよ、ママわかんないよ」
泣き喚く長男を抱えて、もうこっちだって泣きそうになっていた私だ。
あの時の答え、聞けたよ、私。

その後、次男も生まれ、長男も成長し、私はTwitterでたくさんのお子さんとその親御さんの日常を知ることができ、もう子どもって全然違う!みんな個性があって、特性があって、得意なこと、不得意なことがあって、親もそうで。というところにまでやっとたどり着くことができた。そして、一定の「母親ならこうあるべき」と無責任に言う人がけっこういることも知った。

もし、あの時の私が、今の私なら、すぐにハーネスを買う。
長男が好きな車のデザインで「どれがいい?」と長男に選んでもらう。
手を握れなくてもいいんだよ。隣で並んで歩こう。
大切だから、こんなふうに一緒にいようねと、長男と自分に声をかけるだろう。
愛してるから、使えるものはなんでも使う。
世の中は、君が快適に過ごせるものだけではないから。
世界は愛だけではどうにもならないことが、ごまんと溢れているから。

ポテサラを作るけど、ハーネスを使えなかった私。子どもがいて見える世界、見えない世界。
あのハーネス嬢ちゃんも、ポテサラじいさんも、来た道、そして行く道かもしれない。
自分の無知が誰かを傷つけるかもしれないことを、忘れない。
知らないことは恥ずかしいことではないけど、それで誰かを傷つけてしまうかもしれないこと、忘れずにいたい。

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