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パズーとシータ、二十五年後の物語

珍しく、シャルルから手紙が届いた。

「ママが亡くなった」

下手くそな字で、それだけが書いてあった。

ママ。

おばさん。     

ドーラ。

船長。

「シータ……」

そう声をかけると、キッチンで目玉焼きを焼いていたシータが振りかえった。暗い声で呼びかけたはずだけれど、シータはいつもと変わらない表情だ。僕の浮気がばれたあの日以来、シータは常にこんな顔をしている。

「船長が、ドーラが……、亡くなったよ」

喉から振り絞るようにそう言うと、

「あら、おばさまだって人間よ」

シータはいつもの顔で、淡々と料理の仕度を続けた。

僕もシータも、黙々と葬式に行く準備をした。早く行かないと、と思う僕の気持ちとは裏腹に、シータの準備は遅かった。喪服を着て、化粧をして、地味目のアクセサリを選んでつけて、鏡で全体をチェックした後、アクセサリを選び直したのには閉口した。僕は思わず言ってしまった。

「四十秒で仕度しな!!」

まだおばさんだった頃のドーラの生き生きとした顔が思い浮かんだ。目の前がにじんで、鼻の奥がツンとなって、僕は下を向いた。シータが投げつけてきたアクセサリが、僕の頭を直撃した。僕は心の中で言った。

(ぼくの頭は、親方のゲンコツより硬いんだ)

口に出して言っても、多分シータの表情は変わらないだろう。

そう思うと、ため息がもれた。


お墓の前には、たくさんの人が集まっていた。やせてしまってヒゲも真っ白なシャルル。太ってしまったちょびヒゲのルイ。アンリのそばかすは、もう顔どころか首すじにまで広がっている。車いすに座っているじっちゃん。みんな、懐かしい。

それから、目の錯覚かもしれないけれど、飛行機乗りの格好をした豚が一匹、いや一人か、いや一匹、あぁ、どっちでもいいや。きっと、疲れてるんだ。

それぞれ別れの言葉を述べて、ドーラの入った棺が土の中に降りて行く。気のせいか、棺の降りるスピードが早い。これじゃ、棺が壊れちまう。

「ブレーキ!!」

思わず、五年前に脳卒中で死んだ親方のような声が出た。周囲の人たちが、急に大声を出した僕を見ている。

「偉そうな口をきくんじゃないよ。娘っこ一人守れない小僧っ子が!」

きっと空耳だと思うけれど、ドーラの声が聞こえた気がした。そう、僕は、シータを守れなかったのだ。いや、守りきれなかったのだ。子どもの頃の、あの空の大冒険の後。本当は、それからの人生こそ本当の冒険で、そこでこそ僕はシータを守らなければいけなかったのに。

帰り道。

僕は無性に、もう一回、シータと明るく笑って過ごす、そういう日々をやり直したくなった。口下手な僕には、こんな時、シータになんて言えばいいのか分からない。

(おばさん、僕はどうしたら……)

「甘ったれんじゃないよ。そういうことは、自分の力でやるもんだ」

また、ドーラの声が聞こえた気がした。シータは、ただ前を見つめたまま歩いている。ドーラの幻の声に励まされて、僕はシータの右手をつかんだ。こんな真剣にシータの手を握るのは三度目だ。

一度目は、恐怖で震えるシータの手をつないで「バルス」と唱えた。二度目は、喜びに打ち震える手をつなぎ「誓います」と大声を出した。

そして、いま、三度目。

僕は、なんて言えば良いのだろう。こんな時、どんな言葉が正解なのだろう。僕たちは、どうやったら、またあの時みたいに一緒に翔べるんだろう。だめだ、僕には……、僕たちには、飛行石が、もうないんだ。

「男が簡単にあきらめるんじゃないよぉ!」

また、ドーラの声。これはきっと、僕の心の中のドーラの声。そうだ、そうなんだ。僕は、僕なりに、僕たちのこれからについて、自分で答えを出すしかないんだ。僕自身の気持ちを言葉にするんだ。シータといたい、ずっといたい。幸せなんて、今すぐ手に入らなくても良い。二人で、じっくり、ゆっくり進めば良い。今日のドーラみたいにいつか天に召される時、お互いが幸せだったって感じられれば、きっとそれで良いんだ。

そのために。

その日のために。

僕は、今までよりも左手に力を込めて、シータの横顔を見ながら言った。

「四十年で仕度しよう」

シータが、いつもの表情を変えずに小声で言った。

「ここはお墓よ。あなたとわたしの」

バルス!!

心の中で、純粋な少年の声がそう叫んだ。

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